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遠く、半鐘の音が聞こえる。
万次は、むくりと寝床から身体を起こした。
「あんた」
こちらも半鐘の音で目を覚ましていたものか、おとよが心配そうに万次を見つめていた。
「行ってくる」
背中に赤く〝ひ〟の字を染め抜いた半纏を羽織り、万次は一階への階段に向かう。
「あんた」
再び、おとよの声。
振り向く。
おとよが半身を起こしてこちらを見ていた。
障子の隙間から差し込む月明かりに、夜着の間から覗く乳房が白く染められている。その白さに、少しだけ万次は気後れを感じた。
「気をつけて」
「ああ」
わざとぶっきらぼうにそう言うと、万次は階下に下りていった。
「おや」
帳場で紙に何かを書きつけていた万太が、顔を上げ、万次の方を見た。
「火事ですか?」
この兄は弟に対しても敬語を使う。
先ほどとは違った意味で気後れを感じつつ、万次は、ああ、と答えた。
「ちょっくら行ってくらぁ」
わざと伝法に言うと、夜の町へと駆け出る。
遠くの夜空が赤白く染まり、月がわずかに霞んでいる。風が熱気をはらんでいる、というのは多分気のせいであろう。
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