ひ組の万次

3/14
前へ
/14ページ
次へ
「おう、万次」  自身番(町火消しの集合所)に向かおうとした万次の足を、野太い声が止めた。 「頭取」  万次の所属する〝ひ組〟の頭取、弥五郎だった。 「皆は?」 「先に行かせた。お前には〝は組〟への協力要請に行ってもらいてぇ。今日は少々風が強いからな」  弥五郎の言葉に、万次はしばらく無言でいた。 「どうしたい?」 「また、ですか」 「また、とは?」  万次は、とぼけた表情を作る弥五郎をにらみつける。弥五郎はとぼけた表情を崩さない。 「あんたはいつもそうやって、俺を現場から遠ざける。たとえ現場に行っても、玄蕃桶で水を運ばせる役ばかりで、火の元には近寄らせない」 「そりゃあ、なあ」  弥五郎は困ったように鼻を掻いた。 「俺の身体のことを心配しているなら、それは筋違いってもんだ。この仕事に就いた時から、いつでも死ぬ覚悟はできている」  万次のその言葉に、弥五郎は目が針のように細くなった。 「お前、おとよにも同じことを言えるのかい?」  思わず、万次は言葉に詰まる。 「勘違いするなよ」  間髪入れず、弥五郎は言葉を続けた。 「死ぬ覚悟なんて火消しにゃ必要ねぇ。必要なのは大切なものを護り通すという覚悟よ。お前は親父の後を追いたがってるだけじゃねぇか」  万次は力なくうつむいた。 「さぁ、さっさと〝は組〟の頭取のところに行け。自分の役目を軽く考えるんじゃねぇぞ」  そう言うと、弥五郎は夜空が赤く染まっている方角へと走り去った。  後には、うつむいたままの万次だけが残された。  半鐘の音は、いまだに鳴り続けている。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加