2人が本棚に入れています
本棚に追加
「おう、万次」
自身番(町火消しの集合所)に向かおうとした万次の足を、野太い声が止めた。
「頭取」
万次の所属する〝ひ組〟の頭取、弥五郎だった。
「皆は?」
「先に行かせた。お前には〝は組〟への協力要請に行ってもらいてぇ。今日は少々風が強いからな」
弥五郎の言葉に、万次はしばらく無言でいた。
「どうしたい?」
「また、ですか」
「また、とは?」
万次は、とぼけた表情を作る弥五郎をにらみつける。弥五郎はとぼけた表情を崩さない。
「あんたはいつもそうやって、俺を現場から遠ざける。たとえ現場に行っても、玄蕃桶で水を運ばせる役ばかりで、火の元には近寄らせない」
「そりゃあ、なあ」
弥五郎は困ったように鼻を掻いた。
「俺の身体のことを心配しているなら、それは筋違いってもんだ。この仕事に就いた時から、いつでも死ぬ覚悟はできている」
万次のその言葉に、弥五郎は目が針のように細くなった。
「お前、おとよにも同じことを言えるのかい?」
思わず、万次は言葉に詰まる。
「勘違いするなよ」
間髪入れず、弥五郎は言葉を続けた。
「死ぬ覚悟なんて火消しにゃ必要ねぇ。必要なのは大切なものを護り通すという覚悟よ。お前は親父の後を追いたがってるだけじゃねぇか」
万次は力なくうつむいた。
「さぁ、さっさと〝は組〟の頭取のところに行け。自分の役目を軽く考えるんじゃねぇぞ」
そう言うと、弥五郎は夜空が赤く染まっている方角へと走り去った。
後には、うつむいたままの万次だけが残された。
半鐘の音は、いまだに鳴り続けている。
最初のコメントを投稿しよう!