忘却のマゾヒスト

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玄関に着くなり斗羽はその場にしゃがみこんでしまった。 逃げるように走ってきたせいもあるが、それ以上にさっきの光景が息を荒くさせている。 あれはなんだったのだろうか。 目の前にいたのは確かに長谷川だったはずなのに、斗羽を触っていたのは別の人物だった気がする。 もしかしてなくしてしまっている記憶の一部なのだろうか? だとしたら、自分は男性とそういった関係にあったということになる。 偏見があるわけではない。 触られて嫌悪を感じなかったし、むしろもっとして欲しいという気にさえなっていた。 あれは誰だったのだろうか? 記憶なんて思い出さなくてもいいと思っているくせに、やはりこうして断片的なものが見えると気になってくる。 何か大事なことを忘れているような気がして、それを思うと胸がざわつくのだ。 しかしもしも記憶を思い出すことが同時に辛い出来事も思いださなければならないのだとしたら、このまま知らないままの方がいいような気もする。 思い出したいのに思い出したくない。 思い出したいのに怖い、怖いけど知りたい。 二つの葛藤に挟まれて斗羽は溜め息をついた。 結局今はどうすることもできないし、どんなに考えたって解決法はないのだ。 斗羽はポケットから鍵を取り出すと。鍵穴に差し込んだ。 「斗羽」 突然背後から声をかけられて、振り返った。 道路を照らす街灯のぼんやりとした灯の下、誰かが立ってこちらを見ている。 そのシルエットがさっき見た顔のわからない誰かと酷似していて、斗羽は思わずドキッとしてしてしまった。 そんなはずはない。 「あ…えっと…矢田、さん?」 そこにいたのは病室にいた男のうちの一人、矢田だった。 彼らとは、一ヶ月ほど前に病院を退院してからほとんど会っていなかった。 二人とも会社の経営者であり、忙しい人物だと長谷川に聞いていたし、会ったところで記憶のない斗羽は何を話せばいいかわからなかったからだ。 特に矢田は忙しい人だと聞いていた。 自分で居酒屋も経営するほど料理が上手いらしく、以前は斗羽も長谷川も彼の店に通って手料理を堪能していたらしい。 長谷川に訊ねても詳しく知らないからと言われるのだが、そんなハイスペックな男たちと自分がどうして親しく慣れたのか未だに謎だった。
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