絵師一笑・流島に生きる

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師一笑・流島に生きる」川村一彦  宮川一笑は、元禄二年生まれ、江戸時代の浮世絵師・宮川長春の門人で本名藤原氏を名乗る。  俗称、喜平次。一笑のほか湖辺斎、安道、蘇丸と号した。江戸芝田二丁目で家主を務めていた。  師匠の宮川長春譲りの肉筆美人画を専門とし、宮川派の絵師の中では宮川長亀と並んで双璧とされる。  作品は享保から没年まで及び、数多くの作品を残した。肉筆画とは江戸時代に成立した浮世絵の一部門である。  通常、一般的には錦絵と呼ばれ浮世絵版画とは区別され、自ら筆を取って直接絵絹や紙に描いた浮世絵を指す。  肉筆浮世絵は屏風絵・絵巻・画帳・掛物・扇絵・絵馬・画稿・版画下の八種類分類される。  「宮川一門と稲荷橋狩野家の刃傷沙汰」 寛延3年(1750)表絵師稲荷橋狩野家の当主狩野春賀に招かれて、日光東照宮の彩色修理の話を持ち掛けられた。 「お上より日光東照宮の彩色修理を仰せつかってなー、一緒に手伝ってはくれまいか?」 の春賀の問いかけに昔、世話になった馴染みの兄弟子に 「それで何時、何人くらいの助っ人がいるんだい」 と長春は聞き返した。 話の様子じゃ、公儀の仕事で賃代もそう悪くはないらしいので、快く引き受けた。 春賀の絵師と長春の浮世絵師のそれぞれの門人を僧税10人で日光街道を通り日光で首尾よく仕事を済ませ、お上からも良い出来栄えとお褒めの一言を頂戴をして、賃料を貰う段で険悪な状態になっていった。 しびれを切らした長春は、翌年の12月29日、年の瀬に金の工面もままならず、春賀の屋敷に訪れた。 「日光の手間賃、いったいどうなっているんだい」と荒々しい口調で、春賀に迫った。 「今は、支払う金はない。」春賀は居直って言い放った。 「手前の内じゃ、職人にも手間代も払ってやらなきゃいけねーだー。」 と迫った。 長春は春賀の首筋つかんで押し倒した。 それらを見守っていた春賀の門人は、長春に一斉にとびかかり、蹴られ、殴られ、床にたたきつけられた。 納戸に置いてある菰にぐるぐる巻きにされ、縄で縛られた挙げ句、塵溜めに棄てられてしまった。 瀕死の重傷を受けた長春は無念の思いと、悔しさに記憶が薄れていく中、
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