関ヶ原の合戦に見る通説の間違い

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「関ヶ原の合戦で東軍に寝返った小早川秀秋」  この通説に何の疑問も持たない人が多い。  歴史に興味のない人ならまだしも、歴史研究家ですらこの通説の間違いに気がつかない。  これは、結果を知っているからこそやってしまう初歩的な過ちで、有名な歴史小説家でも何の疑問もなく創作してしまう。  そもそも、関ヶ原の合戦に徳川秀忠は参加しなかったのではなく、遅刻したのだ。したがって、東軍には秀忠が率いた3万の兵を加えて考えるべきで、徳川家康の兵と合わせただけで6万になる。  このことは、この合戦をする前から、すべての大名が当然把握していることで、数の上だけでは東軍の勝利は明らかだった。だから、豊臣恩顧の大名ですら、生き残るために東軍に味方するのは当たり前のことだ。  西軍として集まったのは、徳川新政権に必要とされないリストラされそうな豊臣旧政権の大名たちだったと考えられる。  家康としては、もっと豊臣恩顧の大名をリストラしたかったはずだ。  この時点ですでに徳川新政権は誕生していたとも考えられる。  ではなぜ家康は合戦をする気になったのだろうか?  この合戦が起きた年の3月16日に、オランダから出航した東インド貿易の船、リーフデ号が、豊後(現在の大分県)佐志生の黒島沖に漂着した。この船の生存者は24名。その中には、後に三浦按針を名乗ることになるイギリス人の航海士、ウイリアム・アダムスや現在の東京にある八重洲の語源になったヤン・ヨーステンもいた。  本来ならこの船は、西の統治を任されていた毛利輝元が取り調べるはずだが、大坂に回航された後、浦賀に回航されて家康が取り調べ、手に入れている。これが、徳川新政権になっていたという証拠にもなる。  この船には、大型の青銅製大砲19門、鉄砲500挺、砲弾5000発、鎖弾300発、火箭350本、矢尻355個、その他に鎖帷子、甲冑など武器弾薬が多数積んであった。  余談だがこの中で、火箭というのは、現在でいうロケット弾で、朝鮮出兵をした大名なら明・朝鮮連合軍が使用していたので知っているが、家康は朝鮮出兵に参加していなかったので知らず、中に詰まっていた火薬を出して大砲に使っている。合戦で西軍の島津隊が動かなかったとされているが、この火箭を使っていた可能性がある。現在でも龍勢祭りなどとして伝承されている。
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