関ヶ原の合戦に見る通説の間違い

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 とにかく、家康は最新式の大砲を19門も手に入れたということだ。  兵数だけではなく、武器でも優位になった家康は、一気に天下統一を国内外に知らしめるために合戦を行うことを決めたと考えられる。  この頃、秀秋が領地にしていたのは、九州の筑前(現在の福岡県西部)だった。この場所から東軍に味方すると宣言して関ヶ原までたどり着けただろうか?  西軍に味方する大名がすんなりと領地を通すだろうか?  仮にたどり着けたとしても領地に残した家臣の家族はどうなるだろうか?  そもそも家康は、豊臣秀吉の血縁者である秀秋に味方してほしいと思っていたのだろうか?  家康としては、秀秋には筑前に引っ込んでいて欲しかったのではないだろうか?  それだと座して死を待つことになる秀秋は、どうしても合戦に参加して存在感をアピールする必要があった。  確かに、秀秋は西軍の伏見城攻めに参加している。この時点では西軍に味方していると思われても仕方ない。しかし、このことで関ヶ原の松尾山にある西軍が守っていた城に無血入城することができた。  ではなぜ、秀秋は4時間も合戦に加わらず、高みの見物をしていたのか?  それはやはり秀忠の存在が大きかった。この時点では、秀忠がなぜ来ていないのかは誰にも分からない。  仮に「遅刻している」と言われても信じられないだろう。軍法では、合戦に遅刻すれば切腹ものだからだ。  秀秋の兵が、合戦に加わって疲れきったところに、秀忠の3万の兵が現れて、自分たちも攻撃されると考えても不思議ではない。  ではなぜ、秀秋は4時間後に、合戦に加わったのだろうか?  通説では、家康が秀秋のいる松尾山に催促鉄砲を撃ちかけたと言われているが、これは間違いだ。  家康は一旦、退却しようとしていた。そして、秀忠と合流して再度、戦うつもりでいた。  秀秋は、家康が街道沿いに陣を移動したのを見た時、そう思ったはずだ。もしそうなら、西軍から奪った松尾山城の手柄がふいになってしまう。その上、この城に留まっていては、西軍に包囲されて袋叩きにされてしまう。  秀秋が生き残るためには、合戦に加わって勝利するしかなくなった。
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