関ヶ原の合戦に見る通説の間違い

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 秀秋が、松尾山から下りてくるのを見た家康は、「これから秀忠を連れて戻って来るから、お前は松尾山城を死守していろ」という意味で、鉄砲を撃ったはずだ。  このことで本当に秀忠が、この場所にはいないことがはっきりした。  合戦は、秀秋が加わったことで東軍の勝利で終わった。  大手柄を上げた秀秋には、西軍で戦った宇喜多秀家の領地だった備前・美作(現在の岡山県)が与えられた。  ところがこの領地は、ひどく荒廃していた。西軍に加わった大名は、朝鮮出兵で軍資金を費やし、領地を留守にして整備ができない状態だったからだ。  秀秋は慶長の朝鮮出兵では総大将を務めていたので、同じようなものだったはずだ。その上、関ヶ原の合戦で軍資金を使い、財産は底をついていてもおかしくない。しかし、秀秋は、岡山城の外堀工事を20日で完成させ、道路の整備、寺社の復興などをしている。  これらを成し遂げた資金はどこにあったのだろうか?  もしかすると、関ヶ原の松尾山城には石田三成が隠した莫大な軍資金があったのではないだろうか?  それを他に移動させるために秀秋は4時間、合戦に加わらなかったのかもしれない。  秀秋は関ヶ原の合戦から2年後に亡くなるのだが、家臣の多くを毛利家に仕官させている。その毛利家は関ヶ原の合戦後、領地を失い、吉川家の領地を譲られていたほど困窮していたので、秀秋の家臣を受け入れる余裕はなかったはずだ。これにも三成の隠した軍資金が利用された可能性がある。  余談だが、明治維新の時、長州(毛利家の領地)の志士として戦った者に秀秋の家臣の末裔が多くいたと言われている。  秀秋の死にも不可解な点がある。歴史の1ページを飾り、徳川家にとって大恩人でもあるその人の死因がはっきりしないのだ。いまだに裏切り者扱いされていることも不思議でならない。  秀秋は、家康によって暗殺されそうになった。しかし、生き延びて別人として徳川幕府に入った。もう豊臣家とは縁を切ったという証として、あえて関ヶ原の合戦の裏切り者としてその名をとどめているとしたら…。
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