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此の手であの男の息の根を止める事は、私には到底無理な話だろうから。
その破滅願望にも似た、諦念と絶望と、怨嗟が綯い交ぜの感情。
知って居る。と、政子は思った。
目の前の、憎しみと諦めと、捨てきれない恋慕の感情に染まった目の女を政子は見詰めた。
知っている。彼女の感情の揺れも、何もかも。だから。激怒し、今にも静を手打ちにしてしまいそうな自分の夫に、政子は静かに、けれど口調だけは強く、
「私が… 彼女と同じ立場なら、同じように謡うでしょう。貴方を思って。」
そう言って、その怒りの矛先を彼女には向けてやるなと怒りに震える手にそっと触れた。
脳裏を過るのは、あの雨の日の事。
ただひたすら頼朝だけを思い、此の身一つで彼の許へ飛び込んだ雨の降っていた日。彼女は今、あの時の自分と同じ気持ちなのだろう、と。
いいえ、もっとずっと追い詰められているのだろうけど。
会いたくて、会いたくて。他の誰も代わりになんてなれる筈も無い人。その愛しい人と共に在る為なら、他の何もかもを捨ててしまっても構わない、と。
そうして、政子は続ける。
「彼女はただ、九郎判官殿に会いたいだけなのです。あの謡は、貴方に仇為す魂胆あっての事では無いでしょう。
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