2イデアなどない過去

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2イデアなどない過去

一週間前。 いつものように僕は8:32の電車に乗って会社へと向かう。 ぎゅうぎゅう詰めの乗客を見回して、見知った人間と初めて見る人間を見分けるのが僕の日課である。 あの老人はまたドア付近に寄りかかって新聞を読んでいる。あの子供たちはまた昆虫図鑑でワイワイ騒いでいる。あの女性はまた髪を後ろで縛ってうなじを出している。あの青年は見たことがない、つり革にも手すりにも捕まらずにただ一心不乱に「トニオ・クレーゲル」などという聞いたこともないような本を読んでいる。難しそうだ。 そうして一通りの日課を終えて、僕は電車の窓の外を眺める。 ビジネスマンなら本来スマートフォンでニュースをチェックしたり、自己啓発本などをひけらかすように読まなければならないのだろうが、あいにくそんな高い意識は持ち合わせていない。 ちょうど真向かいのこの高級そうな紺色のスーツに身を包んだ男がそれを実践している。 この男はしかし、哀れに思える。まるで道化だ。     
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