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§1
焼き立てのパンの香りほど人の心を正直にする匂いも少ないのではないだろうか。
籠に立てられた、ぱりっと切れ込みの入ったバゲット。棚に並ぶ、どっしりと迫力のあるパン・ド・カンパーニュやバタール。掌サイズの丸いシャンピニオンや、麦の穂のような形のエピ。狭い店内には、潔いほどシンプルなパンばかりが並んでいる。インテリアにも洒落っ気がまるでなく、店というより工房のようだ。それでも、陽だまりのようにふかふかとあたたかなパンの香りだけで、ここはどんなに豪華な内装のレストランよりも胃袋を刺激する空間と化す。
しかし、その「ブーランジェリー・ソレイユ」の店内で馥郁たる香りに全身を包まれながら、椎名唯吹はいつものように幸せな気分を味わうどころか、冷や汗をかいていた。
「椎名さん、彼氏がいるのか?」
目を丸くしてレジカウンターの向こうから身を乗り出してくる久住陽輔は、この愛想の欠片もない小さな店を一人で切り盛りするパン職人だ。唯吹よりひとつ下の二十七歳だというが、パリで本格的なパン作りの修行を積んだ経験もあるらしい。
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