§1

2/6
前へ
/80ページ
次へ
 短い髪を三角巾に包んだ広い額の下で、くっきりとした眉が不穏な形に寄せられている。なまじ顔立ちが整っているだけに凄みがある。少なくとも「町のパン屋さん」という言葉から連想されるほのぼのとしたイメージからは程遠い、鋭い顔だ。 「あ、いえ……今は、誰とも付き合ってませんけど」  こんなことを説明する羽目になったのも、パンの香りに油断させられたせいだ。  恋愛対象が同性だということを(かたく)なに秘匿しているわけではない。驚かれることが少ないのは、外見が「それっぽい」からだろうな、と思う。華奢な体つきに、ふんわりとスタイリグした少し長めの髪。陽輔とは対照的に男臭さ皆無の中性的な造りの顔。営業という仕事柄、スーツもなるべく柔らかい印象を与える着こなしを心がけている。  食品輸入会社「アルカディア」は、若い社員ばかりのオープンな雰囲気の職場で、唯吹も自分がゲイだということは隠していない。それでも、さすがに営業先でここまで堂々とカムアウトしたのは初めてだ。  いや、そもそもそんなつもりは毛頭なかったのだ。  事の発端は、唯吹が持参した発酵バターのサンプルだった。 「うちは、卵や砂糖やバターなんかを使うパンは置かないんだ」  けんもほろろにあしらわれて、唯吹は食い下がった。     
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!

960人が本棚に入れています
本棚に追加