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愛の死
天国への門は開かれ、由紀子は私を遺して去っていった。
私はロボットのように瞬きもせず、ただ突っ立って棺が火葬炉に入って行くのを見送っていた。
「貴方は必ず私に会いに来てくれる。だからさよならは言わない。ゆっくりでいいのよ。精一杯、独身生活を楽しんで来てちょうだいね。」
妻はどんな時も明るかった。しかし私は、それまで、いつでも研究所に入り浸り、眉間に皺を寄せて、儘にならない課題に四苦八苦していた。泊まり込みで仕事をする事も珍しくなく、家に帰っても頭の中は数字や記号で満たされ、彼女の顔をまともに見る事が無かった。気が付けば、妻の目元にはくっきりと笑い皺が刻まれていた。そして私は、彼女に降りかかった悍(おぞ)ましき病名に、これまでの我が振る舞いを悔やんだ。私と妻の若き日に、命をかけて守ると自分に誓った日から、私はどうしてこんなにも変わってしまったのだろうか。
「君が居なくなるなんて……君がいなけりゃ生きていても意味がない。君を独りでは逝かせない。私も直ぐに追うよ。」
「駄目、」
彼女はその時も優しい笑顔で私に言った。
「貴方が人生に満足した顔で来てくれる方がいいの。これまでの貴方を誇りに思ってたのよ。それに私達、あとは永遠に一緒に居られるんだから。」
彼女の、少しずつ消滅していく気配を前に、私の心の地面はぬかるみ、そこで迷子のように彷徨った。いつか終わるという事実を、科学的、超科学的、色々な言い訳で否定し、そして結局は、死という命の最終段階に直面し打ちのめされ、そこにあった命の面影を抱いて辛うじて生きた。
「喪主の方は、そちらの赤いボイラーのボタンを押して下さい。」
私の右腕がスローモーションでボタンまで移動し、更にゆっくりと親指がボタンを押し込んだ。
目蓋を閉じた目の中で、私の光の銀河が音も無く爆発し、その塵は、様々に電子的な色を輝かせながら、か細い座標を散って行き、それがそのまま涙になって、私の目蓋を止めどなく溢れた。
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