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花冷えのする春の宵。月が冴え冴えと光を落としていた。
街道には、見事な枝垂れ桜が凛と揺れている。
花の落ちる音が聞こえてきそうな静寂に、律(りつ)はゆっくりと桜のたもとに歩み出た。
かざした指を薄紅がするりと撫でていく。その花を追うように、律は手をくゆらせた。 風がさらに枝を揺らす。さらさらと心地のよい音が鳴り始める中、律は風を纏いくるりと体を回した。
黒地の長羽織が翻り、花の匂いが立ち込めた。
楽の音はないが、律の頭の中では旋律が奏でられていた。龍笛、三味線、小鼓、琵琶――。自身の中で流れていく音に合わせ、律は舞う。
束ねていない緋色の長い髪がさらりと踊った。
情感を込めながら、律は指の先を頭上高く這わせていく。
舞は律にとっては命と同じもの。生きる意味に値するもの。
さらに身を翻そうとして、はたと動きを止めた。何者かの視線を感じたからだ。視線の先には小袖姿の娘が立っていた。旅籠の下働きだろう。首の後ろで髪を束ねた若い娘は、胸に手を当てながら惚けたようにこちらへと視線を向けていた。
律と目が合うと、慌てて走り去ってしまう。
急に心地よさが冷めてしまった律は舞をやめると一つ息をつくのだった。
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