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昨夜の枝垂れ桜の下に律は来ていた。白練の着流し姿で、しゃんと背筋を伸ばし佇む律は、珍しい緋色の髪のせいもあり街道を行く旅人たちの目を引いた。髪は耳の下で一つに束ね前へ流している。
肩より下まで伸ばした髪も、目立つ着物も、律が遊芸を生業としているからに他ならない。舞には技も必要だが、見目も大切な要素の一つとなる。舞手として中心にいる律が、 平素であっても見た目に無頓着でいるわけにはいかなかった。
早朝とはいえ、まぶしく降り注ぐ日差しに顔をしかめると、律は手にしていた紅の番傘を開いた。雨天でもないのに番傘を差す律は、ますます注目の的となった。
江戸で舞を披露し、話題をさらうようになれば、この空虚さはなくなるだろうか。舞っても舞っても、どこか満足できない自分がいる。
しかし新たな座長となったからには、その辺にごまんといる遊芸一座で終わらせるつもりはなかった。華々しく派手に江戸を闊歩したい。
さすれば、この孤独にも似た気持ちが満たされるだろう。
「あの……」
か細い声が背後からして、律はわずかに番傘を傾けた。
桃色の小袖に前掛けをした娘がいた。年齢は十六ほどだろうか。昨晩桜のもとで、律の舞を盗み見し、黙って去って行った娘だった。
興味がなかった律はすぐに視線を前方に戻し、遠くに見える浜松城下の町並みを眺めた。
「あの、晴天なのにどうして傘を……?」
「あんたにはかかわりのないことだろう」
律はそっけなく返した。律のつっけんどんな態度にしばし沈黙が続いたが、再び頼りなげに娘が口を開いた。
「えっと……」
「何だ」
けだるく答える律に、娘は怯んだ様子を見せたが続けた。
「きれいでした。昨夜の舞」
聞き慣れた言葉である。特に何の感慨もわかない。
「それはどうも」
これ以上話をするのも面倒なので、律は旅籠に戻ろうとする。
「あの!」
無視してもよかったのだが、気まぐれに律は足を止め冷ややかな視線を向けた。
「い、いえ……やっぱり何でもありません。ごめんなさい!」
迷惑げな律に気後れしたのか、娘は走り去ってしまった。
言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいものを。だが、それも律にとってはどうでもいいことだった。
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