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「で、これは一体どういうことなんだ」
律は空の財布をゆすってみせた。中からは塵しか落ちてこない。
「ん、まぁなんというか」
赤い着流し姿の藤弥は頬をかきながら歯切れの悪い言葉を返してきた。
朝餉も済み、これから出立しようとしたときのこと、藤弥がおずおずと言ったのだ。次の旅籠代を使ってしまった、と。
律は仁王立ちで腕を組むと、あぐらをかいている藤弥を見下ろした。その無言の睨みに堪えかねたのか、藤弥はがばっと畳に両手をついた。
「すまん! 博打に使った!」
しばしの沈黙がおりる。部屋の端で、千彰が額に手を当てているのが見えた。
「……ふっ」
律は顔をそらすと、怒りとも笑いともとれる息を吐いた。藤弥は都合よく後者だと判断したようだ。しゅんとしていた顔を上げ、立ち上がると律の肩をばんばんと叩いた。
「そうそう、笑っちまうよな! いやぁ、俺もまさかこんな見事に負けるとは思わなかった!」
はっはっはと声を上げて笑ったあと、再度こちらを見た藤弥が表情を止める。律の怒りが頂点に達しようとしていた。
視界の端で千彰がいち早く両耳をふさぐ。
「このばかっ!」
律の怒声が響く。藤弥は一瞬怯んだものの、調子のよい笑みをつくると、まぁまぁと手のひらを向けてきた。ますます癇に障ることこのうえない。
「今夜の旅籠代はどうするつもりだ!」
律が藤弥に詰め寄ると、彼はしばし考えたあと答えた。
「……野宿?」
「そんな真似、俺にできるわけないだろうが!」
京にいた頃の律は、高級旅籠の一室を間借りしていた。それができるほど、舞手としての実力を買われていたのだ。そんな律が野宿などできるはずもなかった。何より、一流の舞手である誇りがそれを許さない。
「野宿なんて俺にふさわしくない!」
京から浜松までの七日間、安価で相部屋の木賃宿ではなく、値の張る旅籠ばかりを選んで逗留していたのはそういう理由からだった。
「じょ、冗談だって。むきになるなよ。銭がなきゃ稼げばいいだろ。踊り屋稼業でさ」
踊り屋。
京にいたころから、いつしかそう呼ばれるようになっていた。
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