第一舞 枝垂れ桜

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 もっとも、今の舞手は律一人だけであり、舞を彩る奏者も千彰と藤弥の二人しかいない。いささか不格好ではあるが、踊り屋の名を捨てることはできなかった。 「ふん、お前が偉そうに言うな」  いくらか溜飲を下げた律に、千彰が口を開いた。 「でも、ここくらい大きな宿場町、しばらくないよ」  千彰は畳に広げた地図を眺めながら続ける。 「ここに逗留して稼いでから出発したほうがいいと思う」  なるべく早く江戸に着きたかったが仕方がない。律が息をついたときだった。 「失礼します!」  声とともに、さっと部屋のふすまが開いた。 「うおっ」  藤弥が驚きの声を上げ飛び退いた。律も千彰も視線を向ける。そこには、先ほど冷たくあしらった旅籠の下働きの娘が真剣な面持ちで立っていた。彼女はぎゅっと拳を握りしめると、大きく息を吸った。 「お願いします! 私、あなたの舞をもっと見たいです!」  律は眉根を寄せる。それにも娘は怯むことなく続けた。 「申し遅れました。私、由良(ゆら)といいます。この旅籠で働いています」  そう言って勢いよくおじぎをすると、間髪入れずに口を開く。 「旅籠で下働きをしている縁で、浜松城下の茶屋や料亭に知り合いが多くいます。その方たちにお願いして呼びかけてもらえれば、たくさんの人が集まるはずです!」  どうやら踊り屋の観客を集めると言っているらしい。 「盗み見の次は盗み聞きか」  遠慮のない律の言葉に、由良ははっとした表情をする。 「勝手に話を聞いてしまったことは謝ります。でも私……あんなにきれいな舞をみたのは初めてでしたから……。もう一度見ることができると思ったら、いてもたってもいられなくなってしまって……あの……本当にごめんなさい」  しぼんだように勢いをなくした由良はうつむいてしゅんとしてしまった。 「あーあ。律さんが意地悪なこと言うから落ち込んじゃった」 「思ったままのことを言っただけだ」  千彰の言に、律は腕を組んだままそっぽを向く。相手に気を使うという言葉は律にとってはほとんど存在しないに等しい。 「まぁそう拗ねるなって二人とも」 「俺は拗ねてなどいない!」
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