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夕暮れどき、旅籠近くの街道には、踊り屋のためにかがり火が赤々と灯された。そばには桜、浜松城下を臨む場所が、律たちの舞台である。
踊り屋めあての人々で街道はひしめきあっていた。客層は老若男女様々である。満足のいく客入りだ。律は皆の前に立つと自信に満ちた瞳を上げた。
上等だ。
これだけの人数がそろっていれば披露しがいがあるというもの。
律は白銀の着流しに、黒の帯、紫の長羽織姿で、一歩足を踏み出した。それを合図に、龍笛の音がまっすぐに響いた。奏でているのは千彰である。彼はまだ若いが、腕は確かだった。千彰の音は静謐な空気を作り出していく。
客のざわめきがぴたりとやんだ。
冴えわたる音、それでいて静かな曲調にのせて、藤弥が三味線を鳴らし始めた。力強いが繊細な響きをはらむ音が絡み合う。
格別な音が人々を幽玄へといざなっていく。
律は閉じた番傘の先を持ち、片手で回しながらくるりと体を反転させた。人を惹きつける舞の動きを律は知っていた。意識せずとも自然に体が動いていく。
律は紅の番傘を開き、身を何度も翻す。足首まである長羽織が優雅に波打つたびに、人々が息を飲んだ。花びらが、舞を演出するように流れゆく。
この瞬間が好きだった。客が律に見入っていく。魅せられていく。舞で圧倒させるのだ。律にはその実力があった。
やがて静かだった音色が激しく鳴り響いた。合わせて律の舞も速さを増していく。鮮やかな紅傘が翻る。長羽織が、おろした緋色の髪が、美しく軽やかに揺れる。
しかし律の心は満たされないままだ。江戸で名を上げれば、この気持ちも少しは晴れるだろうか。
律の舞の終わりに合わせて、楽の音がぴたりとやむ。辺りから称賛の声が湧き起こった。その歓声は、しばらく鳴りやむことはなかったのだった。
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