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「レイ」
もう一度、彼の声がした。次々と溢れる涙。こみ上げる感情を制御できない。膜の張った視界の向こう、揺らめく水色を背負って彼は優しく微笑んだ。
「これはね、水色ではないのですよ。ペールブルー。とても美しい色でしょう」
レイは何度も頷いた。彼は笑った。とても嬉しそうに。ああ、どうしよう。彼が好きだ。名前を呼ばれただけで、言葉を与えてくれるだけで、こんなにも胸が締め付けられる。あたたかな目で、あんな風に優しい声で、私を呼んでくれた。もうそれだけで良い。
「私、私、あなたのことが――」
そのとき、異変は訪れた。
体中の細胞がふわりと浮く感覚。初めて知るようなそれは、しかし以前も味わったものだった。次いで全身を襲った強烈な違和感に、レイは初めてこの霧に触れた日を思い出した。恐怖、哀しみ、虚しさ――すべてを内包する冷たい感触。
『夢魔は人間を愛してはならない』
『ひとたび愛を知れば、夢魔は夢魔でいられなくなる』
不意に師の言葉が蘇る。レイは自分の体を見つめた。足の先から長い髪まで、全てが淡く揺らめいて消えようとしている。彼女が再び顔を上げると、ちょうど彼がグラスを持ち上げたところだった。
特別な日のために飲むと言っていたグラスを、彼は優雅な所作で唇へ運ぶ。レイはぼんやりとその様を見つめた。自らの体から立ち上る淡い水色の気体、それは見まごうことない、今まで彼女らの周りを包んできた霧と同じもの――あまりにも儚い色をした、夢魔の死骸だった。
男が水を口に含み、じっとこちらを見つめている。死にゆくレイを満足げに眺める彼、その変わらない微笑みを、それでもレイは愛おしく思う。最期に告げようとした想いは無残に霧の中へ溶け、跡形もなく消え去った。残ったのは僅かに深みを増したペールブルーの霧、そしていつも通り微笑む男の姿のみだった。
End.
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