ペールブルーの夢に散る

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 あれから幾度の夜を越したか、数えることはとうに諦めた。彼は難攻不落だった。何を考えているのか、どういった生活をしているのか、どんな性癖をもつ人間なのか、未だにレイは何も知らない。彼はいつも穏やかに微笑んで、一人で喋り続けるレイにごくたまに言葉を返すほかは何のアクションも起こさなかった。 「ねえ、水飲まないの?」  ありとあらゆる手練手管を試した結果、彼は肉体的なアプローチよりも言語によるアプローチのほうが反応を返すことを学んだレイは、椅子にじっと座って過ごすようになった。どうせ返事はないだろうと投げやりな気持ちで放った言葉に、思いがけず彼が口を開いた。 「これは特別な日に飲むためのものですから」 「特別な日?」 「そう――もうそろそろ、ですかね」  レイは浮かれた。会話が一往復するだけでも奇跡に近いのに、まさか二往復出来るなんて。すっかり機嫌の良くなった彼女はテーブルに身を乗り出した。 「特別な日ってどんな日? 素敵な日?」  男は再び黙ってしまったけれど、十分すぎるほど十分だった。レイはにこにこと笑みを浮かべて立ち上がり、久しぶりに彼の手を握った。男の手はさらりと乾いた感触をしていて、彼女がどんなにセクシャルな意図を込めて触れようともその温度は変わらなかった。だからレイはただ自分の嬉しい気持ちを伝えるためだけに彼の手を握った。話してくれてありがとう、と。いつも他の人間にしてきたように、彼を陥落させてその体液を食らうことを、いつしかレイは忘れかけていた。水色の霧に包まれた二人きりの世界で、気まぐれに返ってくる言葉を待ち焦がれて過ごすことが、ただただ幸せだった。 「ねえねえ、名前」  またいくつかの夜が過ぎた。男の表情は相変わらず穏やかだ。ここのところ一切会話がない。レイは苛々してしまう心の内を出来る限り押し込めて、その奥にある切なさを押し殺した。 「名前、呼んでくれない? レイ、って」  優しい微笑みと共に名前を呼ばれることを幾度も想像して、結局それが実現したことはない。彼女は不意に泣きそうになった。人間の時間でもう何ヶ月、下手したら何年も経っているかもしれない。それほど長い時間を共にしたのに、名前を呼び合うことすら叶わないなんて。柄にもなく視界が霞んだ時、だった。 「―――レイ」  彼の声がレイを呼んだ。
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