さらば雨の日

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 ゆたかな蔵書にかこまれて、いまではなんにも不自由がない。  誕生日、自分へのプレゼントが古本屋のおもてで投げ売りされている陽に焼けた一冊50円の文庫本なんてこともあった。  それも過去のささやかな悪夢にすぎない。  いまとなっては、まず誕生日が気にならない。  誕生日がというより、月日の流れそのものが意識の範疇にない。  そもそも毎日をある一定の時間に区切ってすごすというのがわからない。  時間を一日という単位に閉じ込めて、みみっちくパターン化するなんて馬鹿げている。ボクの場合、なんなら一生がすなわち一日だ。  それくらいの気概で生きているとか、そんな自己啓発めいたことじゃあない。  野生の動物は皆そうにちがいないのだが、ボクもまた、時間に理屈をつけて自らを窮屈な環境に追いやるということをしないだけだ。  時間がボクを支配してるんじゃない。  時間はボクの手中にあるのだ。  無駄にカロリーを消費しないから腹もすかない。  大して悩ましい本を読むわけでもないから、頭をつかいすぎてやつれることもない。  ここんとこようやく気づいたことではあるが、パルプにきざまれたこまごまとした文字を拾って情報を収集しようなんざ、まったくもって白痴の所業に等しいということだ。  整然と居ならぶ蔵書に囲まれるのはたしかに心地よい。心地よくはあるのだが、情報を得るうえで体内をめぐる何かしらのホルモンと同程度の即効性をもって脳をくすぐってくれるものとなると、これはもう視覚からのダイレクトな刺激にはかなわない。  ちまちまとならべた文字の大群をぶ厚くたばねて悦に入って、腹のなかでは小馬鹿にしている大衆の好奇心に図々しくあやかり、おあとは各々のイマジネーションにゆだねて評価を待つ。こんなあてずっぽうなうえにお高くとまった伝達手段など、もはや骨董品としての価値しかない。  その点、大量におしよせるとりどりの視覚情報はダイレクトに脳へと突き刺さってくれる。  それらは、いわゆる直情的でキレやすい悪党を生み出す元凶であると干からびたインテリくずれが嘆くフリをする。  なにカリカリしてんだか。  連中もしょせん、化石になった直情でいままさに生い茂った直情をくさしてるだけだ。  直情こそ正義だ。  感覚さえ研ぎ澄ましていれば何ら問題はない。それも肩肘張らず、違和感を察知する程度でかまわない。
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