かつて光に満ちていた、ある豪邸で。

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老人は薄暗い寝室で一人、咳をする。血反吐混じりの、濁った咳だ。 べっとりと赤いものの付いた手を眺め、老人は自嘲気味に呟く。 「もう余命幾ばくもないということか。せめてあの子のいる極楽に行ければ良いのだが……」 そう言って再び目を閉じる。腕を伸ばし続けるだけの力すら残っていないのだ。 ほんの数年前までは、気力と体力に満ちていたというのに。今は畳の上から起き上がるのも一苦労だ。 老人は瞼の裏に歳若い娘の姿を浮かべ、懐古する。 「あの子がわしの全てだった。財産だった。かけがえのない、わしの宝物……」 老人はわしの娘と言いかけて、やめた。また胸の奥から咳が押し寄せてきたのだ。 燃えるような、あるいは刺すような痛みが胸の中で暴れ狂う。まるで地獄の鬼が老人を急かしているかのようだ。 老人の脳裏に、袋に包まれた丸薬の姿がよぎる。あの薬を飲めば、たちどころにこの苦痛から解放されるだろう。 起き上がり、簾をほんの数枚めくれば辿り着ける。衰えた今でも、力を振り絞ればできるはずだ。 だが老人はそれを拒む。 「(悪しき誘惑だ。わしはもう、死ぬと決めたのだ。この胸の苦しみよりも、あの子がいない侘しさが勝る。あの子のいない人生に何の意味がある。これ以上、生きてたまるか)」 老人は生きることに絶望していた。 並みの人間では一生かかっても築けないだけの財産を手に入れ、垣根に囲まれた広い屋敷に住んでいる。老人の内情を知らない者が見れば、誰もが羨むだろう。 しかし金や物では替えられないものを、老人は知ってしまったのだ。 愛と、美である。
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