第1話

5/5
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
『うんそう。なんかこないだ、そうそう、松川城で蜜柑ちゃん助けた時。宗ちゃん、百合ちゃんに店をお願いしたらしいんだよ。で、あのまま宗ちゃんぶっ倒れちゃったでしょ? だからそのお詫びって事で……』 「ええっ! あのオバサン、店に立ったのっ!? 何それ、なんでそんな勝手な事をっ!」  さくらにとって、宗一郎と百合子が連れ立ってどこぞの寺を訪れたという話より、こちらの事実の方が余程衝撃的だった。思わず電話で使う音量以上の声で叫ぶ。 『……まあ、そーいう事だね。うるさいよさくら。耳が、キーンとした……』 「信じらんない! どんだけずーずーしいの! あの店はお兄ちゃんの陣地なのよっ。そこに割り込むなんて、一体あの女、どういうつもりで……!」  さくらにとって、今現在宗一郎が営むあの店は、子供の頃から遊び場でもあった。優しい宗一郎の父親がいて、従業員のおばちゃん達がいて、時に椿がいて。  翼がいて、宗一郎がいた。さくらの家は呉服屋だから、子供が店にいる事はあまり良しとされなかった。万が一、反物を汚すような事があれば大変な事になるからだ。  だからさくらは学校が終わると、『おみやげの家久』に帰った。帰宅部だった宗一郎は、家には帰らずなぜか遅くまで店にいた。そして店の裏で、さくらの宿題を見てくれたのだ。それは宗一郎が芸術系の大学を受けるため、予備校に通い始めるまでずっと続いた。  宗一郎との思い出の場所に、あの女が立った。考えただけで、さくらははらわたが煮えくり返る思いだった。大切な自分の庭を裸足で踏みにじられたようで、身も世もなく腹が立つ。 『……そうは言ってもねえ』  翼はとぼけたような口調で言う。もしかしたら、最初からここへ誘導するつもりだったのかも知れない。 『宗ちゃん、一人でお店やってるんだ。先生とは仲が悪いしさ。毎日フルで入ってるんだよ? バイト見つかんなきゃ、また百合ちゃんに頼まなきゃいけなくなるよね』  また百合ちゃんに……。さくらはスマホを握りしめるとあらん限りの声量で叫んだ。 「……私が働くわよっ! バイトすりゃいいんでしょ!? 働いて働いて、働きまくってやる……!」  そんな訳で、さくらのバイトデビューが決まった。  さくらは学校に許可を取り、晴れて『おみやげの家久』の従業員となったのである。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!