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火葬場のうえにぽっかりと浮かぶ雲を眺めながら、彼女との想い出を優しくなぞる。どんな顔をして歌っていたか、どんな顔で怒ってくれたか、どうやって、抱き締めてくれたか────。
「紺」
背後から名を呼ばれ、慌てて瞳に溜まり始めた涙を拭った。
「おまえ今日は休み。店はケンタに任せとけ」
春海さんのその優しさに、俺は小さく首を振る。
「一人でいると、涙しか出ないから」
「本当よく懐いていたもんな。よしよし、俺の胸を貸してやろう」
春海さんはそう言うと、人目も憚らず俺を抱き締めた。身長はそれなりに高い俺の体を丸ごと包む大きな腕。煙草と酒と香水が混じり合った、夜の匂い。この人の腕の中は、誰のものよりも安心できる。
「ねえ────」
寂しくなかったろうか。怖くなかったろうか。戦後に生まれ、沢山の差別と偏見の中を真っ直ぐ前だけを向いて歩み続けた彼女の人生が、最期の時だけでも、幸福に満ちていただろうか。
「ん、どうした」
髪に頬を寄せ、優しい声が全身に響く。
「何でもない」
その厚い胸を押して、俺は態とらしく剥れてみせた。
「春海さんみたいな薄情者に聞いても答えなんて出ないから」
春海さんはそれ以上追求する事もなく、小さく微笑んで空を見上げた。
俺だけじゃない。春海さんだって、店の皆だって、葬儀に参列してくれたお客様だってそうだ。園枝さんがたった一人で亡くなって、己の無力に打ち拉がれている。誰よりも愛情深い彼女に救われて来たのに、救う事が出来なかった、悔しさ。彼女を愛していた。彼女の歌を愛していた。ただ、それだけなのに。
忘れていた喪失。胸に、ぽっかりと穴が空いた。
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