高校二年生、初夏

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 その安堵感から、顔面の筋肉が一気に解れる心地がした。もう、訳のわからない変な苛立ちに呑まれる事も無いだろう。その余裕から、俺は何時ものような軽口に戻る事が出来た。 「麗子でもダメなら、お前誰なら良いんだよ」 「恋は、しないんだ」 「もったいねえ。好きな人とかさ、いなかった訳?」 「酷いな、俺だって人間だし、普通にいたよ」  茶化す俺に剥れっ面を向け、一瞬の安堵を齎したと思いきや、ふとその瞳が翳る。 「でもさ、ダメなんだよね」  一体何の事か分からず答えられない俺を真っ直ぐに見詰めたまま、紺の唇はゆっくりと動き続ける。 「俺じゃあダメなの」  そしてもう一度、囁いた。 「ベニ、俺、ダメなんだよ」  真っ直ぐに俺を見据える瞳は、何故だろう。泣き叫んでいるようだった。俺は恐ろしくなって、思わず視線を逸らした。脈絡も何もなく、唯逸らした。 「……何それ。よく分かんない」 「うん、分かんないよね、ごめん」  恐る恐る伺うが、其処には何時もの紺がいた。悪い夢を掻き消すように、俺は精一杯笑って見せた。 「まあ、紺には俺がいるじゃん。ずっと独り身でもさ、俺がいるから。結婚したら俺の嫁もいるし、子供産まれたら子供も!」 「俺もベニの家族になれるんだ!」 「何言ってんだ、当たり前だろ?俺の嫁は美人で、優しくて、料理が上手いんだからな!」  不思議な事だが、空々しい未来への希望に、今付き合っている彼女の顔は微塵も浮かんでは来なかった。俺の未来には、紺だけがハッキリとした輪郭を持って笑っていた。  紺はそれはそれは嬉しそうに、俺の妄想を聞いていた。  俺の前では惜し気もなく、よく、笑う奴だった。飾らない無垢な微笑みは、何より煌めいていて、今もこの胸の奥に焼き付いて離れない。  この関係を終える事を、あの時にもう決めていたのだろうか。この会話が何の意味もない事を、分かっていながらあんなにも美しく笑えたのだろうか。 〝ずっといっしょにいようね〟  そう言ったのは、おまえだっただろう?
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