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しかし底の浅い俺の会話は、五分も持たずに収束を見せた。耐え切れずに吹いた口笛が、とうの昔に流行り終えた唄を奏でる。
「懐かしいね」
しまったと思った瞬間、男は落ち窪んだ瞳を細めて囁いた。一番踏み込んではいけない場所に、自ら足を突っ込んだ負い目から、何も答えられずに窓を仰ぐ。望んだ景色は遮断され、縦縞模様が嘲笑うように微かに踊っていた。
夏の陽射しを断ち切るように、締め切られたカーテン。常時回る空気清浄機の無機質なモーター音は、何処か空虚の音色に似ている。
「……連絡、来ていないか?」
心臓が悲鳴を上げる厭な音を聞きながら、俺はゆっくり首を振った。
「来てないよ」
吐息交じりに、そう、と呟いて、男の瞳は痩せてゆく。その悲壮感が堪らなくて、俺は無理矢理に笑って見せた。
「毎月、金だけは送ってくるんだろう?良いじゃん、生きていればさ」
そう吐いた自分の唇を、捻り潰してしまいたいと思った。けれど同時に、その嘘が持つ力を、信じていなければならないと思い知らされる。
生きていれば良い──。
そんな空惚けた感覚が俺達の間にない事は分かっている。けれどそう思い込まなければ、あとは堕ちてゆくだけだ。
脈絡もなく間も無く仕事だと呟いて、ビニール袋を枕元のテーブルに置きながら、逃げるように腰を上げる。
「昼飯、ここ置いとくよ。また来るからさ」
早く、外の空気が吸いたい。この男と共有している輝かしい記憶の波間で溺れ、息が詰まりそうだ。
だが扉の前まで逃げ馳せた俺を引き留めるように、背後で吐息が吐き出された。
「夢に、見るんだ」
これ以上、俺を引き摺り込まないでくれ。俺までも、立ち止まらせないでくれ。
「何時も、笑っているんだよ」
吐息にも似たか細過ぎる声は、聞こえなかった事にした。
俺にだって、今も見る夢がある。何度も立ち止まりたくなる夜がある。何度も、何度も、引き戻したくなる朝がある。
まだこの瞳の中で、おまえが何よりも輝いていたあの日々に──。
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