-蒼-

5/6
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
「蒼」  征司が手を振り上げ、蒼の頬に打ちおろす。  ぱしんという音とともにじわりと熱を感じた。 「高遠を侮辱するな」  じんじんと痛みが頬を覆って行く。 「まいったね・・・」  目の前の顔は完全に夢から覚めたような表情をしていた。 「最初に言うのが、そこなのかよ・・・」  この雨の中は、俺たち二人だけなのに。 「言うよ。もっと言わせてもらう」  頬を叩く事はできるけれど、抱きしめる事はできない所で両足を踏みしめたまま、征司は睨んでいる。 「僕の知っている蒼はこんな男じゃない。僕が好きだった蒼はこんな顔をするじゃなかった。君はいったい誰?」 「征司…」 「触ったらいけない!!」  手を伸ばそうとするのを素早く察知して一歩後ずさった。 「…触ったら、ますます駄目になるんだ、僕たちは。それではどこにも行けない。一緒にいても幸せになんてなれないんだよ、蒼」  すっかり濡れそぼった金の髪の隙間から、燃えるような瞳が蒼の胸をえぐる。 「・・・俺がいなくても、お前は幸せになれるのか、征司」 「・・・うん。なるよ。君も、僕も」 「本当に?俺に抱かれないと眠れないくせに」 「・・・そんなことないよ。今もちゃんと眠れてる」  ・・・嘘つき。  会えなかった数日間で、ますます顎は細く、肌も薄くなった。  見え透いた嘘で、蒼を遠ざけようとする。 「だから、振り返らないで。君は、君の道を行くんだ」  そして、無理やり背中を押した。  お前のいないその道に何の意味があるのか。  言いたいことがいっぱいあるのに、後から後から降り続く雨が言葉を洗い流してしまう。 「あとで後悔しても、もう、俺は・・・!!」  どんなに声を荒げても、征司の表情は変わらなかった。 「後悔しない」  しんと静かな、囁くような声が耳に届く。 「だから、今、ここで、別れよう」    終わった。  あっけなく、何もかも終わった。  完敗だった。  心はここにあるのに、手を伸ばせは抱きしめられるのに、歩み寄れない何かがそこにある。  それは、彼と自分の生れのせいでもなく、育ちのせいでもなく、雨の向こうのあの男のせいでもなく…。  雲の隙間から陽の光がいきなり差し込むように、二人の前に何もないのがが見えてしまった。  自分だけ、目をつぶり、耳をふさいで気がつかないふりをしていたものが、はっきりと表れた瞬間だった。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!