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「蒼」
征司が手を振り上げ、蒼の頬に打ちおろす。
ぱしんという音とともにじわりと熱を感じた。
「高遠を侮辱するな」
じんじんと痛みが頬を覆って行く。
「まいったね・・・」
目の前の顔は完全に夢から覚めたような表情をしていた。
「最初に言うのが、そこなのかよ・・・」
この雨の中は、俺たち二人だけなのに。
「言うよ。もっと言わせてもらう」
頬を叩く事はできるけれど、抱きしめる事はできない所で両足を踏みしめたまま、征司は睨んでいる。
「僕の知っている蒼はこんな男じゃない。僕が好きだった蒼はこんな顔をするじゃなかった。君はいったい誰?」
「征司…」
「触ったらいけない!!」
手を伸ばそうとするのを素早く察知して一歩後ずさった。
「…触ったら、ますます駄目になるんだ、僕たちは。それではどこにも行けない。一緒にいても幸せになんてなれないんだよ、蒼」
すっかり濡れそぼった金の髪の隙間から、燃えるような瞳が蒼の胸をえぐる。
「・・・俺がいなくても、お前は幸せになれるのか、征司」
「・・・うん。なるよ。君も、僕も」
「本当に?俺に抱かれないと眠れないくせに」
「・・・そんなことないよ。今もちゃんと眠れてる」
・・・嘘つき。
会えなかった数日間で、ますます顎は細く、肌も薄くなった。
見え透いた嘘で、蒼を遠ざけようとする。
「だから、振り返らないで。君は、君の道を行くんだ」
そして、無理やり背中を押した。
お前のいないその道に何の意味があるのか。
言いたいことがいっぱいあるのに、後から後から降り続く雨が言葉を洗い流してしまう。
「あとで後悔しても、もう、俺は・・・!!」
どんなに声を荒げても、征司の表情は変わらなかった。
「後悔しない」
しんと静かな、囁くような声が耳に届く。
「だから、今、ここで、別れよう」
終わった。
あっけなく、何もかも終わった。
完敗だった。
心はここにあるのに、手を伸ばせは抱きしめられるのに、歩み寄れない何かがそこにある。
それは、彼と自分の生れのせいでもなく、育ちのせいでもなく、雨の向こうのあの男のせいでもなく…。
雲の隙間から陽の光がいきなり差し込むように、二人の前に何もないのがが見えてしまった。
自分だけ、目をつぶり、耳をふさいで気がつかないふりをしていたものが、はっきりと表れた瞬間だった。
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