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横の壁に古びたピアノがある。
ピアノに凭れ腕組みをしたままサヨリが歌う声は低くハスキーだった。それはまるでサヨリの人生を物語るように、煙草と酒に潰れた悲しい響きだった。
ピアノ弾きはよれよれとした髪を肩先まで垂らした三〇代の貧相な男だったがピアノはうまく、なぜかベスと呼ばれていた。
一度、名前の由来を訊いたことがあるが、なんでも飼っていた犬の名前からそう呼ばれるようになったと言っていた。
その旋律はサヨリの歌声とほどよく縺れ合い、客は会話を止めて、ひとときのパリを楽しむ。あれはもう五年も前の話だから、あの頃にはまだこの絵はなくただの白い壁だったが…。
サヨリが歌い終わると、三橋は、あ・うんの呼吸で、ジン、カンパリ、ベルモットをサヨリの好みに割って作った、ネグローニに丸氷を沈めてカウンターの一番隅に座ったサヨリの前に滑らせる。
旨そうに呑むサヨリの喉が白く浮かびあがった。
思い出の中に埋没しかけていた、そのサヨリが、今、俺の部屋で眠っている。何てことだ。
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