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これがオコノギさんの話だ。最後に私の話をしようか。
私の名は……聞かないでほしい。かつて立派だと信じていた名があったけど、すでに塵となって久しいものだから。
私の墓は偶然、オコノギ家の墓のそばにあって、朽ちて忘れ去られて荒れるに任せられていた。私はそんな壊れた墓石の上にいつからか座り、ぼんやりと辺りを眺めるだけの存在だった。
人の目にも獣の目にも触れない、弱々しい存在さ。
霊は喉が渇く。でも、この世の水は自分では飲むことが出来ない。誰かが墓前に供えてくれないと飲めないんだ。
オコノギ家の墓は質素ながら、きちんと手入れされて花が添えられ、参拝人が来る度に水をたっぷり浴びせられていた。私はうらめしく大理石を濡らす水を眺めていた。
その近辺を彷徨う霊は私ひとりだった。だからいっそう寂しかったさ。
ところがある夏の雨の日、丁度今のシュンタ君ほどの歳だったオコノギさんが私の墓の残骸に気付いた。
「これもお墓なの?」
彼は祖母に尋ねて、そして眉を寄せた。
「誰もお参りしないなら、僕がするよ」
そして水をかけてくれたんだが、あれほど美味いものは、生きている間にも味わった覚えはない。
だが、乾ききった私を満たすのに、幼い少年がかけてくれた水では不十分で、私はすぐに前より苦しい乾きを覚えた。
オコノギ少年に私が見えていたはずはないけれど、そのとき彼は難しい顔をして言ったんだ。
「僕、お墓参りに来たら、こっちのお墓にもお参りする。でも僕が来れないときは、誰も洗ってくれないのかな」
そして天を仰いで言った。
「雨さん、お墓さんを綺麗にしてあげて。僕は濡れなくて平気だけど、お墓さんは水が欲しいでしょ?」
どうして彼がそんなことを思いついたのか、未だに分からない。きっと本人も覚えてないだろうしね。
彼が雨を失ったのはそれから十年以上後のことだが、そこの時差については深く考えないほうが良いのだろう。天界の時間は地上とは異なっているから、おかしなズレが生じるのかもしれない。
ともかく、彼は雨水を私にくれた。
いま私は満たされ、……やっとあちら側へ向かうことが出来そうだ。
もしもオコノギさんの洗濯屋を見つけることがあれば贔屓にしてやっておくれ。
それでは、さようなら。
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