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増水した河は、土手ぎりぎりまで迫っている。いつもは空の下にある川縁は水の底になっていた。
「モモのお墓が……」
「ああ……」
とっくに土は流されて、子猫の死体は水に流されてしまっただろう。くるくる、くるくるとまわりながら流されていく猫の死体。そして自分の娘……
「猫ちゃんかわいそう……」
まるで何かにとり憑かれたように、女の子は走り出した。
俺はカサを投げ出し、そのあとを追った。
俺は娘を助けることができなかった。でもこの子は助けられるかも知れない。
俺の両腕が女の子の胴をとらえたのと、女の子が河に足を滑らせたのはほぼ同時だった。
小さな女の子一人の体。支えられないはずはないのに、俺は女の子と一緒に濁流に落ちていった。
冷たい水が一瞬で体温を奪っていく。
女の子はしっかりと首にしがみついた。背中から抱き着いたのに、いつの間にか俺は少女と向い合せになっていた。きつい腕の中でどうやって体を反転させたのだろう。「大丈夫か」と聞きたかったけれど、空気を吸おうとするたびに、口から水が流れ込みしゃべることができない。
蒼褪めた女の子の唇が開いた。
「自分の娘は助けなかったのにね」
大人びた口調だった。
「え?」
首に回された腕が、拷問具のように固く締まる。
女の腰が、背が、一瞬で何十年も歳をとったように大きくなる。増えていく体重が、重りのように俺を水面から引き離していく。
息ができず、霞がかかったような頭に、どこかで聞いたことのある声がガンガンと鳴り響いた。
「『仕方のないこともある』? 『死んだら苦しみも悲しみもない世界へ行く』?」
少女は、いつの間にか見慣れた姿になっていた。離婚した妻の姿に。
ああ、娘に似ていると思ったのも当然だ。娘は母親似だったのだから。
「なにを都合のいいことを……あなたは何も変わっていない。あなたの不注意で娘のミナは死んだのに!」
肺から空気が逃げ、代わりに濁った水が流れ込んでくる。苦しさに胸をかきむしり、少しでも水面に出ようともがくが、無駄に血の中の酸素を消費するだけだ。
肺に残った最後の息を吐き出すと、俺の意識は遠ざかっていった。
「ねえ、知ってる? この前水の事故があったでしょ?」
「ああ、あの……ミナちゃん、だっけ? ひどいわよね。お父さん、スマホで遊んでてちゃんとみていなかったんでしょ?」
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