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暫くの重苦しい沈黙の後、異質な空気を悪戯に掻き混ぜるように突然向き直られ、ついビクリと身体が強張る。そんな俺を見て、白井さんは小さく微笑んだ。
「今日で俺との契約も終わり。借金も完済。君は晴れて自由だよ」
それは待ちに待った知らせの筈なのに、目の前の状況の異質さに大手を振って喜べない。これは何だ?この胸騒ぎは、何だ。
「ごめんね、冬弥」
そう言って何処か困ったように微笑んだ顔が、酷く優しかった。
一人部屋を出て行く背中を追い掛ける事が出来たなら、何かが変わっていたのだろうか。それが出来なかったのは、全てが嘘であった事を、突き付けられたからだろうか。
俺はそのまま、山室さんに連れられて白井さんのマンションに戻った。そしてそれ以来、白井さんはぷっつりと姿を消した。本当にあの人がいたのかどうかすら疑いたくなる程、跡形もなく。
何でもそうだ。失って気付く。俺はきっと、本当にあの人が好きだった。もちろん探したよ。だけど、思い付く所はなかった。あの人が行きそうな場所、あの人の思い出の場所、何にも無かったんだ。明日立ち退く事が決まった、東京タワーが見えるこのマンションの一室以外。俺は何を見ていた?俺は一体、誰を好きになった?
空っぽの部屋で声を上げて泣いた。夜が明け、世界が〝今日〟と言う未来へと動き出す中、たった一人、取り残された気がした。
ある男の懺悔・完
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