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男はスッと立ち上がると俺の荷物に、上着にと手際良く準備を始めた。とっとと出ていけって事なのだろうけど、冗談じゃない。今立ったら多分、いや確実に倒れる。
中々立ち上がらない俺に気付くと、男は腰を屈めて覗き込んで来た。切れ長の黒い瞳の中に、この一時間で相当窶れた顔が映し出される。男の長い指先が、顔にかかる前髪を掬い上げた。
「可哀想に」
そんな心ない言葉に、我慢出来ず涙が溢れた。壊れてしまったんじゃないかって自分で心配になる位、俺は子供みたいに嗚咽を漏らして泣いた。
俺はその日、実の父親に売られた。
景色が飛ぶ様に流れて行く。涙で滲んだネオン街が光の尾を引いて、まるで全てが夢であると錯覚させた。防臭剤の匂いに包まれ、深く沈んだ車のシートの上で身動ぎ一つしない俺に、ミラー越しチラチラと視線を飛ばすタクシーの運転手。そりゃそうだ。こんなどうみても未成年が、生意気にも軽く一万はかかる場所を指定したんだ。金ならある。だからどうか、少し放っておいてくれ。この現実を受け入れる事が出来る迄。
ふと東京タワーが放つアンバーの光が目の裏を突いた。この涙は一体、何なのだろう。悲しみとか、怒りとか、切なさとか。そんな物じゃ無い気がした。虚しい────それが一番しっくりくる答えだ。心の中には何も無い。弱い冷房の風すら、その空っぽの空洞を平気で通り抜けて行く。何も無い筈なのに、何故か、涙が止まらなかった。
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