第十八章 優しい記憶

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「相変わらず肝が座っとるのお」  可笑しそうに笑いを噛み殺す男を尻目に、ソファに深く凭れ窓の無いこの部屋の草臥れた天井を仰ぐ。よく分からない黒いシミの数々が、不気味に影を落としていた。俺も今日、このシミの一つになるのだろう。 「別に死ぬのは怖くない。まあ、心残りがない訳じゃないけど、別にどうでも良いっちゃ良いし」  この世に未練は無い。それに人生の幕を引いてくれるのが、他の誰でもない米倉さんである事だけが素直に幸せだと思えた。俺が唯一僅かでも心を許した人間がいたとすれば米倉さんただ一人だから。だがこんな風にしか考えられない腐った自分が、その時だけは心底嫌になった。 「すみませんね、出来損ないで。米倉さんも大変ですね」  小さく笑う俺に、米倉さんも優しく微笑み返す。  そしてゆっくりと言葉を投げた。 「将生、最後に抱かせてくれや」  その言葉が、酷く胸を締め付ける。ズキズキと疼くように、息苦しさを覚える程の痛み。分かっていたんだ。この男がどれ程、俺を想っていたか。それでも俺は皮肉に口元を歪めた。 「変な冗談、やめて下さいよ。それに残念ながら俺は抱く方専門なんですよ。抱いて欲しいなら喜んで」 「そらあ残念じゃ。流石に掘られるんはのお」  本気で考え込む米倉さんの険しい顔にホッとした途端、思わず吹き出してしまった。 「バカ」  笑いながらそう詰る俺を見て、米倉さんも可笑しそうに笑った。相変わらず屈託の無い笑みだ。  俺達は何時ものように下らない冗談で笑い合う。最期の時だからなのだろうか。俺の心に長年忘れていた暖かな灯火が揺れる。凍り付いた心を溶かしたものはこの男の真っ直ぐな想いなのだと思う。もう少し、俺がまともな人間だったなら、貴方を苦しめる事もなかったのだろう。今更後悔しても遅いから、どうかこの別れを優しいこの男が引き摺る事の無いように。唯それだけを願う。
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