第三章 歪な波紋

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 目敏い仔猫が剥いた牙は、思いの外深く平常心を抉る。 「……だったら、何?」  絞り出した声は、自分が思うよりも冷たい物だった。慎太郎も山室も、息を詰めているのが良く分かる。だが余りにも衝動的なこの暴挙を誰一人止めようともしない。雪の気持ちを尊重してるつもりだろうか。気持ちが悪い。俺を見上げる雪の口元が歪み、張り付いたような厭な笑を浮かべた。 「みっともねえな。何取り乱しちゃってんの?」  その言葉で漸く俺の頭から昇った血が引いて行く。確かに、みっともない。 「答えてよ。どうして?俺ね、それだけが分からないんだ」  落ち着け。冬弥を捨てた事に、何も後ろ暗い事など無かった筈だ。どうして何て、知れてる。あの時は目的の為にそうするしか無かった。それだけだ。俺が、冬弥にだけ特別な感情を抱いていたとでも?……下らない。全く愚かな事をしてくれたもんだ。  ゆっくりと掴み上げた襟元から手を離し、俺のお陰で乱れた衣服を丁寧に整える。完全に冷え切った頭で思考を巡らせ、この不躾な青年を黙らせる方法を用意してから俺は重い口を開いた。 「ねえ、雪。そんなに俺の事を知っているなら分かるだろう。未練に引き摺られて生きていた方がマシだったんじゃない?こんな下らない仏心出しても余計に冬弥を苦しめるだけだよ」 「……それを決めるのは俺達じゃない。冬弥だ」  一瞬の間は、心の何処かで同意しているからだ。  雪はよくよく知っている。俺に関わって、苦しまない筈が無い事を。それを知りながら進むと言うのなら、教えてやる迄だ。 「誰かを愛し、その相手が自分を愛してくれるなんて、そんな人生は素晴らしい物だよね」  深い絶望の中で膝を抱え叫び続け、優しく手を引いてくれた山室にさえ牙を剥いて、傷付け合ったその果てに、幸せを手にした雪。愛情がどれ程尊い物か身を持って知ったからこそ、俺ですら変われると思ったのだろうか。それとも単純に冬弥を想っての事なのか。前者でも後者でも、どちらにしても愚かしい事この上ない。愛情で幸せになれる人間もいる。 「だけどね、俺には必要ない。俺が俺に固執する人間を無情に斬り捨てる理由はね、お前みたいに引き摺られたくないからだ。お前にとっては大切なそれも、俺にとっては邪魔なんだよ」  俺はそもそも幸福を望んだ事すらないのだから。
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