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そのままその日の授業を終え、教室が待ちに待った帰宅に沸き立つ中、榎木さんは席に付いたままのろのろと帰り支度をしていた俺に向き直った。
「で?続きは?」
「あ、うん……」
撤収の早い若者達の声がもう廊下の遠くで響く。残っていた生徒も徐々に帰って行くのを待っていると、何故か結城さんがまじまじと俺の顔を覗き込んだ。
「良く見るとお前、赤ん坊みたいな顔してんな」
「ベビーフェイスって言いなよ」
二人がそんな不毛なやり取りを始め掛けた所で、漸く最後の生徒も教室を出て行った。このまま脱線して話しが進まないと困るし、俺は慌てて口を開く。
「実はこないだ、会いに行ったんだ」
「半沢が引き摺ってる人に?どうだったの?あんまり、思わしく無かった?」
何時もより優しく感じる榎木さんの声に俺はゆっくりと頷く。
「そもそもさ、どう言う経緯で付き合ってた訳?その女と何で別れたのかとかさ、まずそっから聞かせてよ」
付き合ってた……?そうか。普通付き合ってて、捨てられて、とかそう言う話しになるのか。
「……付き合って無かったの?」
続いた結城さんの言葉に、ジワリと視界が滲む。
俺は所詮愛人で、そもそも白井さんは本気じゃなかった。もう一度始めて良いかなんて……バカげた事を言ったもんだ。なんて惨めなのだろう。
「虐めるのやめなよ翔太。濁しても良いから言いな。お兄さん達が汲んであげるから」
俯いた俺の頭上で優しい榎木さんの声が降る。過去の記憶を思い起こすように瞼を閉じたら、暖かい涙が頬を滑り落ちて行った。
繋いだ手の温もり。触れた唇の熱さ。耳に染み入る澄み切った声。白井さんのくれた、優しい言葉。本気じゃなくても良かった。利用されているだけだったとしても、全てが嘘でも、俺は、その全てが愛おしくて堪らなかった。
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