第二十九章 上司と部下

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 専務室のドアが少し開いていて、中の声が微かに漏れてくる。  俺は新調したスーツの襟を正して、背筋を伸ばしてドアの前に立っていた。 「いきなり専務だなんて、荷が重すぎます。私は一社員から――」 「気持ちはわかるけど、社内にも社外にも馨ちゃんのことを知っている人間がいる以上、一社員として働かせるわけにはいかないんだよ。荷が重くても、風当たりが強くても、相応の役職にいた方がいい。それに、私なんて大学の講師から社長就任までたった半年だった。会社員の経験すらなかったのに、だ。その点、君は一般企業というものを知っている。それだけで、充分だよ」  何が充分なんだ。  部長だった俺ならまだしも、主任だった馨が専務は、ない。だが、さすがに会長も社長も、『それ』は許さなかった。 「大丈夫。馨ちゃんの社長就任まで、まだ三年程ある。一年程専務として勉強してから二年間副社長として経験を積めば、すんなり社長就任できるよ」  無茶苦茶だ。  今時、会社役員が六十歳で定年退職するなんて、あり得ない。  社長は、よほど引退したいのだろう。 「それに、馨ちゃんの秘書は信頼出来る優秀な人間だ。心配はいらないよ」 「はあ……」  力ない馨の声には、不安が滲み出ていた。だが、馨自身が選んだ道だ。 「わかりました。頑張ります」  俺は思わず口角を上げ、ニヤリと笑った。 「じゃあ、秘書を紹介するよ」と言って、社長がコホン、と咳払いをした。 「入ってくれ」  俺は深呼吸をして、ドアを開けた。
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