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「失礼します」
俺を見た馨の顔には、憶えがあった。
馨から黛を殺したい理由を聞いた俺が『結婚しよう』と言った時。あの時も、今と同じようなアホ面でフリーズしていた。
目を見開き、瞬きもせずに俺を凝視する彼女の頭の中では、花畑が一斉に満開を迎えたか、花畑に潜んでいた蝶が一斉に舞い上がったことだろう。
あの時と違うのは、彼女の脇くらいまであったクセのある髪が、肩まで短くなっていること。
馨の髪に指を絡ませるのが好きだったが、指で髪をすくのも良さそうだ。
俺は馨の、専務の三歩手前まで近づくと、最高級の営業スマイルで言った。
「本日より専務の秘書を務めさせていただきます、槇田雄大です。よろしくお願いします」
「なんの……冗談……」
「槇田君、専務のことをよろしく頼むよ」と、社長が俺の肩を叩いた。
「お任せください」
「じゃあ、私は仕事に戻るよ。……あ! その前に、ひとつ。馨ちゃん、彼を君の秘書にするにあたって、ちょっと特殊な雇用契約を結んだんだ」
社長はドアの前で振り返って言った。
「はい?」
「彼は馨ちゃんの専属秘書として雇用されている。他部署への異動は、ない。君が副社長になっても、社長になっても、彼はずっと君のそばにいる。だから、彼を解雇できるのは、馨ちゃんだけだよ」
「えっ!? それはどういう――」
動揺する馨に穏やかな微笑みを向けて、社長は部屋を出て行った。
俺は馨に一歩近づき、少し屈んで言った。彼女の耳元で、囁くように。
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