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第一章 誘惑
その日は朝から体調が悪かった。
理由はわかっている。
『今日』だから。
本当は仕事を休んで、ベッドの中でその日が終わるのを耐えたかった。
そうしていれば、こんなことにはならなかったのに。
今更、遅い。
朝一で出席した部内会議が長引き、ランチを食べる間もなく依頼主との打ち合わせ、ようやくデスクに戻ると部下から問題の報告を受け、対処し、コーヒーを飲む間もなく企画会議へと向かった。
どうせ休めないのだからと早めに家を出て、会社近くのカフェで無理にでもサンドイッチとサラダを食べておいて良かった。
そうでなければ、間違いなく企画会議の途中で意識を失っていた。それくらい、忙しくて、体調が悪かった。
「お前、大丈夫か?」
会議室のドアノブに手を掛けた時、そう言われて振り返った。
槇田部長。
「朝から調子悪そうだったろ」
驚いた。
体調が悪いことを悟られないように気を付けていたし、実際誰にも気づかれなかった。
「大丈夫です」
私は作り笑顔で返事をして、重いドアノブを押した。
手が震える。
「どこが大丈夫なんだよ」
三秒前まで部屋の一番遠い場所に座っていた部長が、すぐ後ろに立っていた。
「送るから支度しとけ」
「え……?」
息がかかるほどの距離に、振り向けない。
「でも、企画書のチェックが――」
「そんなフラフラで任せられるか。いいから帰り支度しとけ。いいな」
部長が軽々とドアを開け、私はふらりと足を踏み出した。
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