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或る雨の日
曇天の空の下、駅前でひとり佇む私の気持ちは憂鬱。スマートフォンで時間を見てみれば十一時四十五分。待ち受け画面に写る私とその彼氏は満面の笑みを浮かべているのに、画面を消して黒に写る私の表情は最悪。約束の時間は十一時。四十五分の遅刻。まだ来ない。何度も何度も連絡をするのに繋がらない。初めは移動中だと思った、次には何かあったんじゃないなと心配した、最後に苛々してきた。「まだ来ないの?」「待ってるんだけど」という文章を送りつけ、何度も電話をかける。彼のスマートフォンは私の履歴で埋め尽くされている筈。それなのに連絡ひとつと無い。
「もう!」
苛ついた声を出し、小さな声に誰も振り返る人はいない。もう1度連絡してそれでも出なかったら帰ろう。ああでも、それはそれでムカつく!タップしようと指を動かしたところで着信音が響いた。電話だ。
「今どこ!?」
開口一番、不機嫌を隠しもせずに言い放った。
「何処も何も、家。自宅。つうかそっちこそ何?履歴怖すぎる。ホラーごっこ?」
「自宅!?こっちはずっと待ってるんだけど!」
「はあ?何それ」
こいつ…っ!
「今日約束してたでしょ!」
「そうだっけ?」
「そうだよ!何?忘れてたの?」
「んー」
ぼんやりとした返答が返ってきた。忘れてた、こいつ絶対に忘れてた。
「今からダッシュで来い」
「やだよ。怒ってるでしょ」
当たり前だ!
「それに、カズと約束してんだよね。ひと狩り行こうぜ。って」
「はあ!?一彦君とは明日でも明後日でもいいでしょ!」
「無理。イベント今日までだから」
「ちょっ」
言葉を続けようとした私を無視して無情にも電話が切れた。わなわなと体が震える。
「そっちが!この日なら時間空いてるって言ったんでしょうが!!」
もう電話が切れていることを知っていても、その板切れに向かって怒鳴った。今度こそ何人かの視線が私に向いた。ひとつため息をついて曇天の空を見上げたら、ぱらぱらと雨が降ってきた。天気予報は曇りだったから傘を持っていない。
「最悪」
呟いた言葉は虚空に消えた。
近くのコンビニで傘を買おうと思っていたのに駅前のくせにコンビニが無い。周辺をぐるぐる回る羽目になり、今では地面を親の仇でもあるように雨が激しく打ち付けている。そのまま自宅に直帰すれば良かったと肩を落としながらも、雨宿りのために店の軒下に入った。次のデートに着て行こうと嬉々として選んだ花柄のワンピースは水を吸って台無し、かわいいサンダルも水に浸ってる。深くため息をつく。空は今や黒く染まっている。私の心と同じ。雨宿りしている私の前を傘をさした人が歩いてく、腕を組んで歩くカップル。男なんてゴリラみたいな顔しているし、女だって去年流行した服。化粧だって濃すぎ。荒んだ心で通行人への悪態を並べ立てていると、からんと乾いた音がした。振り返るとお店から白髪の混じったおじいさんがひょっこりと顔を出した。普通に出て行けばいいのにと顔を顰めた私に視線を向けてきてたじろぐ。
「お嬢さん、其処でたっていても濡れるだろう。中に入らないかい」
そんなことを言われた。ここはどんなお店だったかと視線を横に向けると古書店で自分とはあまりにも縁遠いそれに私は首を横に振るう。小さなお店だし何も買わずに帰るというのは難しそう。
「珈琲でも飲もうと思っているのだがひとりでは寂しくてね。お客さんもいないし、この老骨に付き合ってくれないか」
迷ったが頷く。雨が弱まるまで軒下からは出られそうにないし、そう言うのならば買っていかなくても文句は言われまい。店内に入ると本の匂いと少し埃っぽい匂いがした。掃除はされているからこれも本の匂いなのかもしれない。古書店だから当然だけれど本ばかりが並んでいる。頭が痛くなりそう。小さな店内をおじいさんに促されて奥へと進む、とレジ横に置いてあるものを見て目を見張った。カウンター奥の畳の上にこたつが置いてある。もう夏にも近づくというのにこたつ、今日は暑いとまではいかないが、半袖で丁度いいくらいなのに。
「どうにも片付けが面倒でね」
畳に上がったおじいさんが言う。足が濡れてしまっているので私は段差になっている畳の上に座るだけにした。
「珈琲は飲めるかい?」
「砂糖があれば」
砂糖無しの珈琲は何が美味しいのかさっぱり分からない。
「蜜柑は好きかい?」
「え?えぇ」
思いがけない言葉に曖昧な答えを返してしまった。蜜柑?この時期に?
「蜜柑は蜜柑でも冷凍みかんさ」
顔に疑問符を全面に出していた私におじいさんはウィンクを投げてよこそうとしたのか歪に両目を瞑ってみせてからお店の奥へと消えて行った。
「はは」
乾いた笑みが漏れて、この店に入ったことを早くも後悔し始めた。
少ししてお盆の上に珈琲と冷凍蜜柑を乗せて戻ってきたおじいさんがこたつの上に置く。冷んやりとした蜜柑と熱々の珈琲。どう見てもアンマッチ。茶色ばかりのこの空間に橙の蜜柑が加わったところでどうにもぼやけて見える。折角出されたのだからと冷凍蜜柑を食べる。冷たい。この後に珈琲を飲もうなんて思えない。なんとも言えない顔をしているとおじいさんが、今日は何かあったのかい?と聞いてきた。この行き場のない気持ちを吐き出せるなら何でもいいと、今日あった事を話した。おじいさんは途中で話を止めることなく、うんうんと頷いて聞いてくれた。話し終えてもまだ気持ちは治らない。おじいさんは少し考えるそぶりをしてから口を開いた。
「ふむ。お嬢さんこんな話を知っているかい?
或る日の男の話だ、その日は曇天の空だった。男の気持ちもまたどんよりとしていた。電車に乗り向かい席に座った娘は、頬を異常なほどに赤く染めた下品な顔立ちで男は不快感を覚えた。トンネルに差し掛かるとその娘は窓を開けようとする。男は永久に成功しないことを祈るような冷酷な気持ちでいたが無情にも窓は開き黒い空気が車内に雪崩れ込む。咳き込んだ男は頭ごなしに叱り、窓を閉めさせようと思っていたが、トンネルを抜けた踏み切りの柵の向こうで三人の子供たちが手を挙げ、声を上げるのを見た。娘はその子供たちに向かって幾つかの蜜柑を子供たちの上から降らせた。これを見た男は朗らかな気持ちが湧き上がるのを感じ、そうして退屈な人生を僅かに忘れることが出来た」
その話を私は無感動に聞いていた。確かにその或る男はそれで少し救われたのかもしれない。でも私の目の前にある冷凍蜜柑は茶色の中に埋もれているし、珈琲は砂糖を入れても黒々としている。
「ああ、雨が止んだようだよ」
おじいさんが窓の外を見る、同じように窓の外を覗き込む。
「あ」
雲の切れ間から太陽の光が幾つも差し込んでいた。その光が窓の中にも差し込んで蜜柑を鮮やかな色に染める。水滴に光を浴びてきらきらと光っている。さっきと同じもののはずなのにとても綺麗なものに見えた。
「また遊びにおいで」
私の表情を見たおじいさんは柔らかな笑みを浮かべた。
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