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一話(一)
麗らかな春の昼下がり。
都のはずれ、九条邸の当主である賀茂浅葱は一人の式神を傍に置いたままで、黙々と文机に向かって筆を手にしていた。
手元を見やれば、霊符を作り足しているようだ。
齢十四の幼き陰陽師・浅葱は、その実力から都一と謳われる存在である。
烏羽色の髪は肩を過ぎたくらいの長さ。それを高い位置で括り、前髪は真ん中で分けられている。耳の前のひと房はいつも両方で下ろしており、それが彼の一つの特徴でもあった。瞳の色は褐返が混じる黒で、一般的な普通の色である。
外見的には少々女子寄りだが、それを差し引いても然したる目立つものを持たない少年だ。
ちなみにその身にまとっているのは祖父譲りの青磁色の着物と菖蒲色の袴、白の透けた千早は先代から譲り受けたものを大切に着ている。この年齢から言えば狩衣あたりを着ていてもおかしくはないが、浅葱は一貫してその姿を貫いていた。
「浅葱さま、今のうちに少しでもお休みください」
「……うん、もうちょっとだけ。昨日消費しちゃった枚数だけでも、戻しておかないとね」
側近も兼ねている黒髪金目の式神が、主を心配して静かに声をかけたが浅葱はその言葉をやんわりと跳ね返し、作業を続ける。
陰陽師と言う職柄は、不安定な時間を作り上げることが多い。夜になればほぼ毎日、都を徘徊する妖と呼ばれる物の怪を鎮めに出向かなくてはならない。戦闘になることも珍しいことではなく、それが長引けば当然のごとく彼らの休まる時間は削り取られていく。
ここにいる浅葱も例に漏れず、昨夜は殆ど眠ることが出来なかった。
不眠不休を続けさせるわけにもいかず、仕える女房や他の式神なども先ほどから休めと言っているのだが、浅葱は一向に首を縦には振ろうとはしないのだ。
どうやら、これと決めて始めた行動を終わらせるまでは、やめられない性格らしい。
「…………」
黒髪の式神は、浅葱の背中を見つめながら静かにため息を吐いた。
名を賽貴というこの式神、人の姿をしてはいるが元は陰陽師にとっては敵に当たる妖であった。成人男性を思わせる体躯と黒一色の着物。濡羽色の黒髪は右側が少々長く、左側はざんばらに短く、前髪から後ろへと流すようにしている。これについては理由があるのだが、今はまだ語るに早い。そんな彼の実態は、ヤマネコのような姿と黒い鳥の羽根をもった獣だ。
浅葱に仕える式神達は皆、元は妖という変わり者ばかりであった。
意見が合った、感銘を受けた――理由はそれぞれに様々ではあるが、みな歴代の賀茂家の陰陽師に惹かれているという点では共通している部分がある。
手を差し伸べてくれたからこそ、彼らはそれに応えるべく陰陽師に――浅葱に従う。
周りに奇特だと言われようとも、浅葱はその信念を変える事はせずにいた。自分が尊敬する祖父の意思を継いでいるからこその行動である。
「よし、あと一枚……!」
暫くの沈黙が続いたあと、浅葱が再び口を開いた。
そして、次の瞬間。
「……わっ……!」
浅葱の対屋を吹き抜けたのは、一陣の春風。
くるり、と円を描いたかのようにその身を躍らせる風は、浅葱の手元にあった符の束を半分以上抱き込み、舞い上がる。
「あ、え、ちょっ……ちょっと待って!」
「浅葱さま!」
浅葱は風の先を追いながら、右手にしていた筆を放り投げて立ち上がる。
制止の声を掛けた賽貴の声は、彼の耳には届いていないのであろう。
そのまま脇目も振らず走り出した主を、賽貴はため息混じりに追いかけ始めた。
「…………」
「――風が、悪戯に乱れておるの」
西に位置する対屋では、二人の男女が『主』の変化に動きを止める。
僅かな風の乱れに最初に気がついたのは、鶯色の髪を持つ狩衣姿の青年のほうであった。茶色の瞳には光が宿っていない分、聴覚が他の者より優れているのだ。それには、生まれ持っての能力も含まれているのだが。
そして、その青年に静かに声を掛けたのは雪のように白い肌、そして蒼白色の長い髪と瞳を持つ小袿姿の美しい女性だ。彼女の長い髪は床まであり、横髪の一部と前髪が綺麗に切りそろえられていて、一見するとどこかの姫君を思わせる姿であった。
「季節による偏風であったとしても……浅葱さまを惑わすとは」
青年は独り言のようにそう言った。そして様子を伺うべくゆっくりと立ち上がる。
と、同時に。
庭先から聞こえてきたのは、派手な水音だった。
「――――」
「…………」
否応無く、訪れる沈黙。
青年も美女も、言葉無くお互いに溜息を吐く。
「どうやら……妾も出向かなくてはならぬようだの」
そう言いながら、優美な仕草で立ち上がる美女は青年の隣に歩みを進め、庭先へと視線をやった。
青年の名を颯悦。美女の名は白雪。
二人とも浅葱を主とする、式神である。
その、二人の視線の先にあるものは――。
風に巻かれた符を追いかけ廊を抜け、足場を失い無様にも池に飛び込む形となってしまった主の姿があった。
「……あぅ……また、やっちゃった……」
池の中、体の半分以上を水に浸したままの当の本人、浅葱は罰の悪そうに独り言を漏らす。
そしてその背後には、なんとも言い難い表情をした賽貴の姿があった。
そんな間の抜けた主人と、付き人の行動を全て見ていた者がいる。
『毎度』のこととはいえ、ああも見事に同じような行動を繰り返されると、もう笑うしかない。
浅葱は頭上に降ってくるそんな控えめな笑い声に、頬を赤らめながら瞳をめぐらせた。
「朔羅……」
「……災難だったね、浅葱さん。早く池から上がらないと、風邪を引いてしまうよ?」
まるでその場が特等席、と言わんばかりに木の上に腰掛けながら浅葱に声を掛けるのは朔羅という青年だ。
中性的なその姿は、見るものを惑わせる魅力がある。優しさを湛えた水色の瞳と、柔らかそうな薄茶色の短い髪が印象的だ。
言わずもがなだが、彼もまた、浅葱の式神という立場にいる。
「お手を、浅葱さま」
いつまでたっても自分で立ち上がろうとしない浅葱へと、賽貴が静かに手を差し伸べた。
「……あ、はい……っ」
すると浅葱は慌てて立ち上がり、彼の手を取る。
賽貴の手を借りたまま、池から上がる主の姿を確認してから、今度は颯悦が言葉無く手を差し出した。
すると、ばら撒かれた状態になってしまった数十枚の符が、ふわりと宙に浮く。
すぅ、と自分のほうへと手を引くと、宙に浮いた符は颯悦に従うように身を寄せ始めた。彼は風を操る能力を持ち合わせているらしい。
「符が……っ」
「ご安心を。颯悦が風を操っているだけですから」
浅葱が霊符の動きを目で追い始めると、それを断ち切るかのように賽貴は彼を抱きとめる。びしょ濡れになってしまった浅葱を心配しているのだろう。
すっぽりと賽貴の腕の中に納まる形となってしまった浅葱は、再び頬を紅潮させながら、符が流れていく方向へと瞳をめぐらせる。
するとその先には賽貴の言ったとおりに、符を集めている颯悦の姿があった。
彼の隣にいる白雪の視線が、心なしか痛いと感じるのは気のせいではないのだろう。
白雪には『己の行動に責任を持て』と、常日頃から言われ続けているからだ。
気を取られるたびに目先が見えなくなり、余計な行動を起こしてしまう自分の性格に、浅葱は深い溜息を吐いた。
「……ご気分でも?」
「ううん、違う。ちょっと……自分が嫌になってるだけ」
濡れた着物を換えるべく、賽貴に手を引かれながら階に足を掛ける浅葱は、かっくりと頭を垂れながらそう応えた。
――直後。
激しい衣擦れの音が目先の廊から響いてきた。
浅葱はその音から、こちらへと向かってくる人物の気配を読み取り、思わず賽貴の後ろへと身を隠した。所謂、条件反射というものだろう。その態度だけで、今回のような失敗が度々繰り返されてきたと言うことが良く解る。
「浅葱」
毅然とした態度で姿を表した衣擦れの音の主は、一人の女性だった。
浅葱の様子を目に留めたとたん、彼女の柳眉は跳ね上がる。
「……母の言わんとしている事は、熟知しているでしょうね?」
静かな怒りを湛えた言葉。
チクチクと突き刺さるその言葉に、浅葱は応えられずにいる。
名を桜姫というこの女性は、浅葱の実の母親にあたり、そして――先代の陰陽師であった。浅葱と同じ髪色と、同じ黒い瞳を持つのが何よりの親子の証と言える。
本来、女性は檜扇を持ち屋敷の奥に籠っているのが常であるが、彼女は現役の頃に男装をして活動していたために、こうして表に出てくることが多いのだ。
緋袴に桜色の小袿姿で、紅をさし美しい面差しではあるが、その表情は常に厳しいものであった。
「答えなさい、あさ――」
「――お風邪を召されると、困ります」
一歩踏み出し、浅葱の返答を求めにくる桜姫に割り込んだのは、賽貴だった。
揺らぎのない金色の瞳で真っ直ぐに、彼女を見据える賽貴。それは、自分の主を誰よりも大切に思っているからこその行動である。
相手が浅葱の母親であろうとも、彼の行動は変わらない。
「…………」
桜姫の周りの空気が賽貴の態度一つで、一瞬にして変わった。
怒りの瞳は憎悪へと変わり、冷たい表情は現役の頃の厳しさを彷彿とさせるほどだ。
「……同じ事を繰り返すのは、愚か者のすることですよ」
僅かの間の後、桜姫は静かにそう告げた。賽貴にではなく、浅葱に対してだ。
彼女は、『賽貴』という存在を認めてはないのだ。
それだけを言い捨てると、彼女は身を翻しその場を去っていく。
浅葱はそんな母の後姿を見ながら、言葉を失ったままでいた。
自分が叱咤されるより、賽貴に対する母の態度が――何より悲しいからだ。
いつまで経っても賽貴を理解してくれぬ母。それを感じ取るたびに、心が軋みそうだった。
何故、母が賽貴をそれほどまで忌み嫌うのかは、理由を聞かされてはいない。誰に聞いても、浅葱に真実を告げてくれる人がいないのだ。
憎むべき対象。だが、その事実は屈折している。桜姫もまた、真実を目の当たりにしているわけではなく、彼女の母親が告げた言葉が全てだった。
そんな――『悲劇』の真実を知るのは賽貴と朔羅のみだ。
「母上……」
賽貴の着物をきゅう、と握り締めながら浅葱がぽつりと母を呼ぶ。だがその声は、桜姫には届かない。
「浅葱さま、白雪が着替えを用意してくれています。室へ戻りましょう」
「……うん」
俯いたままでいる浅葱に、賽貴がそっと背中を押しながらそう言った。
見上げれば、賽貴は淡く微笑んでくれている。浅葱はそんな彼の優しさに感謝しながら、自分も微笑を返して頷いた。
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