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八話(二)
「朔羅……わざと姿を見せなかったの?」
「まぁね。僕がいると余計な口出ししちゃいそうだから」
理由は単純だった。
朔羅は頑なに賽貴と浅葱が離れることを反対してきた。だからこそ、場を外していたのだろう。
「……それで? 向こうに帰るの?」
「うん。私の存在はやっぱりここじゃ『異物』みたい。賽貴が結界で守ってくれてるのは分かってるけど、それでも朔が終わってから体がじわじわと拒絶されてる気がする」
「そうだね。王帝の力で平常時に戻りつつはあるけど、完璧じゃないしここの空気はやっぱりあなたには辛いだけだと思うよ」
浅葱の目の前に置かれたままだった几帳を平気で押しのけて、朔羅は当然のごとく彼の隣に腰を下ろした。そして自然に主に手を伸ばして、肩を抱く。
その流れを黙って見ていたのは、賽貴だ。
「賽貴さんはこのまま、残るんでしょ」
「……そうなるな」
「浅葱さんがそれを受け入れたんだから、僕ももう何も言わないよ。その代わり、ちゃんと帰ってくるんだよ」
「ああ」
浅葱を挟んで、一と二の式神の会話がされていた。
あまり良くない空気だったが、それでも二人とも長年の付き合いだ。不満はあれども理解をする、という形に落ち着くのだろう。
そんなことを考えつつ、浅葱は自分の心が思った以上に凪いでいることに気が付いた。
こちらに来る以前は、もっと色んなことに焦りを感じていた。
藍を救えないかもしれない。
自分もここで死ぬのかもしれない。
皆に迷惑をかけてしまうのかもしれない。
そして、賽貴がここに残ってしまうのかもしれない。離れ離れは、嫌だ。
確かに、そう思っていたはずだった。
「浅葱さん、大丈夫かい?」
朔羅の呼びかけに、浅葱は数回の瞬きをした。
そうして、ゆっくりと顔を上げる。
「あ……うん、少し考え事を……。あの、王帝は体調とか、どうなのかな」
「……父のことは心配いりません。颯悦が色々と処置をしてくれていますし、白雪が後ほど診てくれるそうですので」
「そう……。快復された頃にまたお会いできたらいいんだけど、難しいかな」
「——伝えておきます」
賽貴の返事は、しっかりとしていた。いつもと同じようにしてくれているはずだが、それでも浅葱には少しだけ遠いような気もした。
「本来ならば、賓客として一晩くらいこちらでお過ごし頂きたかったのですが……やはり門も、そろそろ限界のようです」
「そうみたいだね。私は、戻るよ。藍も一緒にいいかな?」
「え、あ……うん」
先ほど浅葱に袿を広げてくれていた藍は、いつの間にか少し後ろへと下がったままでいた。そして突然自分へと言葉を投げかけられ、慌てるようにして返事をして見せる。
そうこうしているうちに、王帝に付き添っていた琳と颯悦がこちらへと戻ってきた。
「二人とも、お疲れ様。王帝のご様子はどう?」
「私の薬でお休み頂きました。作り貯めたものを置いてきましたので、しばらくは何とかなるかと思います。こちらの薬師もいるでしょうし、あとは白雪に任せたほうが良いでしょう」
「僕のほうも颯悦どのと同じ意見です。自分が出来ることはもう無いと判断します」
二人はそこでようやく、浅葱へと深々と頭を下げてきた。主と式神としての姿勢が、戻ったという印象だ。
それを実感し、浅葱は僅かに頷いた後、改めて賽貴へと視線をやった。
「……賽貴、あなたはやるべきことをここで成し遂げてきてから、戻ってきて」
しっかりとした口調で、そう告げる。ここまで澄んだ感情で賽貴に向き合えることに、浅葱自身が内心で驚いていた。
だが、偽りなどではない。
「必ず、私はあなたの元に戻ります。ですから、待っていてください」
「うん……待ってるよ」
賽貴が深々と頭を下げてからそう言ってきた。少しだけ、それが悲しくも思えた。
そう感じると、やはりどうしても視界が歪む。
「……、……」
浅葱はそれでも、堪えていた。
隣の朔羅はそれに気づいていたが、敢えて何も言ってはこない。
だから浅葱は、涙をせき止めることが出来た。
――寂しくないわけではない。悲しくないわけではない。
だがそれでも今は、それを表に出すわけにはいかないのだ。
「――すまない、ほんの僅かな時間でいい。俺と浅葱さまの二人だけにしてくれ」
一拍の後、そう言ってきたのは賽貴だった。
その言葉に、浅葱は目を丸くした。そして次の瞬間には、一斉に周囲の気配と隣のぬくもりが消えた。
賽貴の言葉通り、二人きりの空間となったのだ。
流れのまま、こう言った時間を過ごせる事は暫く無いのだろうと思っていた浅葱には、予想外の展開でもあった。
「……賽、」
「あなたは本当に、聡い人だ。今この時も、最善の事だけを考えようとしている」
「あ……」
賽貴にそう言われて、浅葱は表情を歪めた。そこから心の奥底を覗かれた気持ちになり、思わず俯く。
そんな浅葱を見て、賽貴は静かに笑みを浮かべた。
「……言ってください、俺に」
「言えないよ……ううん、言わない」
優しい声音に甘えてしまいそうになる。
だがそれでも、浅葱は頑なであった。
すると、賽貴が次の言葉とともに彼を抱きしめてきた。
「言ってほしい。……あなたの我侭を聞きたいんじゃない……俺が、言ってほしいだけなんだ」
「賽貴……」
「すぐに戻れる確証がない。父のあの状態を踏まえれば、おそらく数か月……一年ほどは掛かってしまうかもしれない。そうなると俺は、何を糧にここで過ごせばいい? あなたが居ないのに」
「……っ!」
抱きすくめられたまま、賽貴の言葉を耳にした。良く馴染む音から紡がれた響きは、彼の本音だ。
「だって、賽貴……、私は、私だって……。っ、本当は、いやだよ……っ」
涙腺は、面白いほど簡単に緩む。
堪えてきた感情や、誤魔化してきた気持ちが、そこで一気に崩れてしまう。
「っ、どこか、不安だった……だから、そう考えないように、してたのに……っ、賽貴を、困らせたくなくて、だから……!」
「……わかっています。でも、こうしてぶつけてくれて、俺は今とても嬉しい。俺だけが寂しいわけじゃないんだと……確認させて欲しかった」
それは、賽貴の『我侭』であった。
溢れる涙を止めることが出来ないまま、浅葱はそれを感じ取る。自分だけではない感情は、同じように相手にもきちんと存在していたのだと改めて感じて、やはり賽貴の言うように嬉しいと思えた。
「――浅葱さま。私があなたに誓った最初の言葉は、今でも変わりません。『己の天命尽きるまで、精一杯お仕えさせて頂きます』」
「賽貴……っ」
それは、忘れもしない響きだった。
浅葱が幼かったあの日、賽貴が側近として式神として、初めて約束を交わしてくれた言葉だ。
「……っ、どれだけかかっても、絶対、戻ってきて……っ待ってる、から……私は、ちゃんと待ってる、から……ッ」
「はい。必ず、戻ります」
浅葱は嗚咽を漏らしながら、それでも必死に言葉を紡いだ。賽貴の着物をきつく握りしめて、敗れんばかりの力だった。
震える主の体をただひたすらに抱きしめ続ける賽貴の腕も、強かった。
離れたくはない。
そう思うのは、二人とも同じくらいだ。
感じあって、分かち合う。許されたわずかな時間、白雪が刻限を告げてくるまでの間、二人はただひたすら抱き合っていた。
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