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九話・完結(一)
浅葱がヒトでは無くなってから、体の変化というものが少しだけ変わった。
まずは、朔の影響を受けなくなった。つまりは、『少女』としての変容が無くなってしまった。
それから、ヒトであった頃に培った霊力が、やはり極端に減った。かつては都一と謳われた浅葱は、その名実の格を落とす事となった。
だがそれでも、浅葱は『陰陽師』であり続けた。本家の当主の力添えもあり、依頼は減るどころか逆に増えている。
――妖しの光をもつ陰陽師。
いつしか彼は、そう呼ばれるようになっていく。
霊力が減った代わりに、それを補うようにして体を満たしたものは妖力であったが、浅葱はそれを上手く転用して陰陽術へと変化させていた。力を使うたび、どうしても紫を帯びた光を放出してしまう為に、印象としては悪しきモノと捉えられてしまうことが多かったが、それでも浅葱は都人に尽くし続けたのだ。
瞳の色は、やはり碧色から戻らないままであったが、依頼ごとに朔羅が術を施し、その色を誤魔化してくれていた。
母の桜姫は、その事実に僅かに悲しんでいたようだが、それでも浅葱には何も言ってはこなかった。厳しいだけだった母は、いつからか優しく我が子を見守る存在となっていたのだ。
そして父の蒼唯は、やはり少しだけ複雑な心境であったようだ。自分と同じ妖気を纏わせる浅葱を、哀れと感じたのかもしれない。だが、父もやはり浅葱には何も言わず、変わらぬ笑顔で接してくれた。
親であり子であることには、変わりはない。それが二人の答えでもあった。
ヒトと同じ時間を生きられなくなってしまった浅葱はこれから先、いくつもの命を見送っていくだろう。
不変となってしまった自身の体を、いつかは悔やむかもしれない。それでも彼は、微塵も憂いてはいなかった。
諷貴の子を身ごもっていた紅炎は、無事に赤子を出産した。黒髪に赤目の、健やかな女子であった。
縁戚になる琳と藍は、その赤子の髪の色を気にかけていた。もし双子であった場合は、片方に必ず銀の子が生まれてくる。そうなれば、母子ともに不幸になってしまうだけだと思っていた。だがそれは、杞憂となった。
「諷火は、どちらの姿に寄るのかな」
「生まれた直後は、炎狼の気が強かったようですが……どうなるのかは、私にもわかりません」
眠る赤子をのぞき込みながらそう言う浅葱に、紅炎は静かな言葉を返してきた。
事の顛末を見届けることが出来ず、悔やんだり悲しんだりもしていたようだが、今はとても穏やかな表情をしている。
気持ち的にも、落ち着いているのだろう。
子の名前は父である諷貴から一字をもらった。紅炎自身がそう決めたようだ。
そして浅葱も、その響きをとても褒めて、受け入れた。
「……大丈夫。この子はきっと、美しくて立派な娘になるよ」
浅葱はそう言いながら、小さな赤子の頭をそっと撫でた。
紅炎はそんな主の姿を間近で見て、最近一段と大人びた表情をするようになったと感じていた。
「浅葱どの、お疲れでは無いですか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ」
紅炎からの、思わずの問いかけだった。それでも浅葱は、何も疑わずに笑顔で返事をする。
「……私だけが良くして頂けているようで、少々気が引けます」
「そこは、気にしなくていいよ。諷火がもう少し育つまでは、あなたには『母』であってほしい」
「浅葱どの……ご無理だけは、どうか」
「うん。心配かけてごめんね。ありがとう」
浅葱はそういうと、ゆっくり立ち上がった。紅炎は赤子を抱いているので、そのままでと合図を送り、室を出る。
「そろそろ乳母に預けて、あなたも少し休みなさい」
主としての言葉が、遠くに聞こえた。
浅葱の姿は、いつもどこか緊張したままのように見えるのだ。
だが、紅炎は何も言える立場になかった。
それが少しだけもどかしくも感じる。それでも彼女は、愛する我が子のために『母』でなくてはならないのだ。
「紅炎さん、小姫さまをこちらに」
「……ああ、ありがとう。では私も、浅葱どのの言う通り、少しだけ休ませてもらおう……」
几帳が風によりゆらり、と揺れた。
そして浅葱と入れ替わるようにして姿を見せた一人の女房に声を掛けられ、彼女へと娘を預ける。
紅炎には、浅葱の計らいで乳母がつけられている。生まれた娘も『姫』と呼ばれ、大切にされていた。過分な配慮と紅炎自身が思い、遠慮もしたのだが、結局は押し切られてしまっている。それに伴い計らずも娘には乳兄弟なども出来ることにもなり、縁も結ばれていく。
紅炎はそれを静かに噛みしめ、用意された床へと姿を消した。
「浅葱さん」
庭を眺めつつ渡殿を歩いていた浅葱に声をかけたのは、朔羅だった。
「屋敷内の見回りを主自らやるのは大変結構だけど、時間切れだよ。部屋に戻ってね」
「でも……母上の様子も気になるし」
「紅炎の今までを見てきて、分かってるでしょ? 僕たちに出来ることは少ないんだから、素直に頷いてよ」
朔羅はそう言いながら、浅葱の返事を待たずに彼の肩を抱いた。そして半ば強引に、浅葱の自室へと導く。
夜に依頼があり、殆ど眠っていなかった浅葱の体を気にかけているのだ。
ちなみに浅葱の母は、驚いたことに現在懐妊中であった。
それが判明したのは、一月前ほどであったか。体調を崩し寝込む日々が続いていたところに、白雪が判断した故の事だ。
悪阻が酷いらしく、あまり面会もままらない日が続いている。
「……弟かな、妹かな」
「浅葱さんはどっちが良いって思ってる?」
「どちらでも、嬉しいよ。諷火ときょうだいみたいに育ってくれたらいいなって思ってる」
そんな会話をしつつ、浅葱は自室へと戻り、几帳の向こうにある帳台へと進まされた。その間にも、付き女房たちが言葉無しに御簾と格子をおろし、主の休息を他の家人たちに知らせる。
「……明るいうちに眠れというのは酷かもしれないけど、今晩だってきっと依頼が来るだろうからね」
「うん、そうだね……」
「さぁ、おやすみ」
帳台の中に押し込むようにして、主をその場に収めた朔羅は、手前の帷をゆっくりと下ろして優しくそう告げた。
「…………」
浅葱のそばに、賽貴の姿は無いままだ。
それ故に、浅葱の側近の役を現在は朔羅が担っている。
浅葱は、泣き言一つ漏らすことはなかった。
朔羅と二人きりの時であっても、それは変わらない。
強がっているわけではなく、享受した末の姿なのだろうと朔羅は思っていた。
それは誇らしくもあり、そして悲しくもある。
「……昔から、あなたは我慢する子だったね」
浅葱には届かないように声を小さく絞りながら、朔羅は呟いた。
物心つく頃にはあの厳しい母について、陰陽師の空気を全身に受けていた。
それ故に、妖を見ても怖いと言ったことも無く、定められた立場を拒絶したこともなかった。
模範のような『出来た子供』。
その中に見つけた唯一の存在が、賽貴だ。
浅葱が初めて自分の意志で欲しいと言った。
小さな指先が、行き先の見えない賽貴へと向いた時、その隣りにいた朔羅はとてつもなく感情を掻き乱された。悪い側ではなく、それは『感動』であった。
その感動を朔羅は誰にも崩されたくはなかった。
永い時の中、あれほどまで心を動かされた光景は無かった。だからこそ、守りたかった。
彼が頑なまでに浅葱と賽貴が離れることを反対していたのは、こういった経緯ゆえなのだ。
「僕の勝手な、理想の押し付けだけどね……」
そんな独り言を再び漏らしつつ、朔羅は浅葱の室内の角に歩みを進め、そこで腰をおろした。
賽貴がいたころ、彼が同じようにして浅葱に仕えていた。それをなぞるに過ぎないが、朔羅もそのようにして過ごしている。
『彼』が戻るまでは、朔羅はその姿勢をずっと変えないままであった。
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