余聞。いつかの話。

1/1
前へ
/85ページ
次へ

余聞。いつかの話。

 自ら飲み込んだ王の座の負の部分は、思った以上の昏い闇であった。  それでも彼は、その空間の中を正気を保ったまま、静かに生きてきた。  何度か、意識を揺るがす過去の声が聞こえてくることがあった。『忘れるな』、『憎め』、と言った在り来りな言葉は、彼を堕とすには足りず、軽い響きでしかなかった。それ故に、かつての弟のように中てられることも無かった。 「――諷貴(ふうき)」  何もない空間から、声が聞こえた。  空耳かとも思ったが、憎悪のそれではないと判断し、名を呼ばれた諷貴は顔を上げる。 「誰だ?」 「……誰だと、思いますか」 「っ、まさか……」  諷貴は瞠目した。  疑いようのない声音だった。  だがそれでも、あり得なかった。  誰の侵入も許されないこの空間に、その者だけが入り込めるはずもなく、どう考えても納得が出来ない。  ――(しずか)のような存在が、諷貴の目の前に立っているのだ。 「瀞……なのか?」 「正確には、あなたの言う『瀞』ではありません。ですがそれでも、私はあなたを知っています。憶えています」 「……廻った、のか。魂が……」  諷貴が恐る恐るそう言うと、瀞のような彼は、小さく微笑んだ。それが、肯定の証だった。  ――どれだけ、どれほどの時間が流れたのか、諷貴には解らない。だが、目の前の存在は幻でも妄想でもなく、本物であった。 「長く……待たせてしまいましたね。私は貴方を、迎えに来たんです」 「馬鹿を言うな。この場から出られると思うのか」 「……それでも貴方は、私の式神でしょう?」 「!」  その言葉に、体が震えた。  確かにあの時――浅葱をこの場から追い出したあの瞬間、忘れかけていた自分の『印』が、酷く疼いた。それが何であったのかは敢えて確かめなかったが、何らかの術の発動だったのか、と思えた。  それが今ここで、証明されている。 「……私は賀茂家の四代目。名を静柯(しずか)。三代目を伯父に持つ、陰陽師です。そして貴方は、私の唯一の式神なんです」 「唯一、だと……? 他のやつらはどうしている」 「三代目はご存命ですし、賽貴たちは彼の式神のままですから」  俄に信じがたい話をされている。  だが、このどこか噛み合わない口調は、やはりとても『彼』に似ていた。 「それで、どうやってここから出る? 俺はこれでも王の座そのものだぞ」 「それがまぁ、不思議な話なんですが、三代目と賽貴(さいき)が頑張りまして。……貴方のその背負うモノ全てを、取り込む球体を作りました」  これです、と彼が差し出してきたものは、手のひらに収まるほどの小さな球であった。かつて藍が握りしめていた、あの球と同じものであり、違うものでもある。真っ黒であったはずのものが、今では透明なそれであるからだ。 「これを、こうして……」 「おい、待――ッ」  静柯はその球を手のひらに乗せたまま、パン、と両手を叩いてみせた。諷貴が止める間もなくそれは弾けて、闇が明ける。  僅かな浮遊感のあと、数年ぶりに感じた光に諷貴は目を細めた。 「……ねぇ、ほら、諷貴。不思議ですよね」 「お前は……」  どういう仕組なのかは解らなかった。  それでも諷貴は、『救われた』のだ。  目の前の静柯が首を傾げて笑うと、かつての彼をそこに見た気がして、諷貴は彼を思わず抱き寄せていた。 「俺のもの、で、良いんだな?」 「そうですね。あの時、貴方の手を取れなかった私を、許してくれるなら……」 「馬鹿だな」  その言葉は、『瀞』そのものの響きであった。  諷貴は苦笑しつつもそれを噛み締めて、腕の中の彼を抱きしめ直す。  これだけで充分であった。  そう思いつつ、諷貴はようやく手に入れた存在の温もりを、いつまでも確かめ続けていた。  終
/85ページ

最初のコメントを投稿しよう!

55人が本棚に入れています
本棚に追加