夕映え

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夕映え

 満開の桜の木々には静けさで支配する力がある。  それはまるで、一面に積もった雪があたりの音を吸い取るかのように。  たとえ、うららかな昼の日差しの中であろうとも、今にも雨粒の落ちそうな曇天の下であろうとも、言いようのない静けさの、威圧的とも言える空間がそこに存在する。  そして、薄紅色に彩られた枝々が腕を伸ばし、傘を差し掛けているかのようなその根元を歩く時、華やかさと静けさに惑わされ、ふと、何かの拍子に別の世界に迷い込んでしまうのではないか、迷い込んでしまったのではないかという心地になる。  いや。  迷い込んでしまいたいのだ。  あの桜の木の先を歩けば、この空間を通り抜けていけるかもしれない。  あと一歩足を進めれば、あと少し時が過ぎれば・・・。  あの人に逢えるかもしれない。  花の白さのように高潔で  花びらのように柔らかく  ただよう香りのようにほのかに甘く  時には、その静けさのように非情だったひと。  大地を覆うためにあらん限りの枝を伸ばしつづけ、力尽きた、哀れな大樹。 「高遠」  風が吹き、花びらが舞う中、声が聞こえたと思うのは、幻で。 「たかとお」  いくら足を進めても、いくら目をこらしてみても、あの人の面影すら見ることが出来ない。 「高遠・・・」  傾いた太陽がじわじわと空の色を染め上げていくなか、ひたすら探し続ける。 「・・・篤志」  名を呼んでくれたのは一度きり。  抱きしめられたと思ったのは、ほんの一瞬で。  心のありかの解らぬまま旅立ってしまったひと。  それでも探さずにはいられない。  まっすぐに伸びた背筋。  満天の星空のように深く、遠い瞳。  暖かさと硬さが混じり合う透き通った声。  あなたに会いたい。  無性に会いたい。  あなたの名を、もう一度呼びたい。  あなたに、言葉を、伝えたい。  見上げた枝の花々に朱色の光が射貫く。  硝子のように光を通す花びらが茜に染められていく。  立ち尽くして眺めるばかりの自分の頬を、夜の匂いを含んだ風が撫でていった。 「たかとお」  やがて闇があたりを覆ってしまっても、桜は花を開いたまま立ち続ける。  優しく、静かに、心と身体を縛り付けて。 「高遠」  月よりも冷たく、太陽よりも遠いひと。  そんなあなたに、私は会いたい。
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