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あの花が咲く場所で
あの花の名前、何だっけ。好きな記憶は残っているのに。家はどこだっけ。いつも過ごしていたのに。私、誰だっけ。大切なことなのに。それなのに、思い出せない。
それでもまたこの季節を生きている。
あの花が咲く場所で、思い出したいことがたくさんある。
それなのに、私はまだ動けなくてここにいる。
苦しい。そう感じてしまう。どうしようもなく、いき苦しい。
けれども、こんなにもざあざあと降りしきる雨の中にいてもなお動けない自分が嫌だ。どうしてこんなにも臆病なのだろう。
淡藤色だったお気に入りの運動靴は水浸しで、より色が濃くなっている。初めの頃は水の感覚が気持ち悪いと思っていたが、もう違和感は無くなった。制服のスカートもシャツも、ぐっしょりと濡れて最早衣服の意味を成していない。顔や髪も同様にずぶ濡れだ。全身が水と一体化したようにさえ感じる。けれども、傘はまるで役に立たず、レインコートなどは持っていないので濡れるしかない。
街の人は冷淡で、私のことを見て見ぬふりをして避けて通る。一人、二人あからさまに私から視線を逸らす人や、逆にじっと観察してくる人がいる。
これが普通で、私はこの場所に佇んで今年もまたこの夏を生きていかなければならないのだろう。そう思うと、悲しくなった。
私には、夏以外の記憶がない。
厳密にはここ数年の「あの花の咲き始めから咲き終わりまで」の記憶だけはあるのだが、それ以外ーー例えばそれ以外の季節のことであったり、この時季だけを生きるようになった経緯であったり、私に関することであったりーーはあまり覚えていない。
だからあの花の名前も、私の家も、私のことも、思い出すことができなくて今年もここにいるのだ。
でもあの花が好きだったことや今履いている靴がお気に入りだったこと、家族の仲が良かったことは覚えている。
どういう仕組みかはわからない。けれども、この雨の中でわざわざ考えるようなことでもない。
私は思考を放棄した。
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