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第一章
定刻仕事を切り上げてから北村朔郎(きたむらさくろう)は六階の職場を離れ、廊下の端にあるエレベーターに乗った。彼はエレベーターの中で考えた。
昨夜、随分と昔の恋人から突然に、まったく唐突に会いたいと云って来た。しかも恋人を奪った亭主の正幸(まさゆき)は彼にとっては中学時代からの友人であった。
その昔の恋人、佐恵子(さえこ)は鼻から抜けるような甘い声で 、それでいて明瞭に本人の消息を訊いてきた。長い話の末に今日、彼女にあう約束を取り付けられた。
朔郎は懐かしさと半ば後悔が頭の中で止めどなく激しい渦になってさらされていた。
ビルから一歩出るとムッとする暑さに顔を舐め尽くされた。
「しつこい夏だ!」
朔郎は思わず叫びたくなった。彼は気持ちが昂じていく自分を感じとった。
「いかん! いかん! 。落ち着け、落ち着け。しかし何でまたあの女は急に会いに来るんだ」
朔郎はビルの前の通りから御堂筋へ出た。心斎橋から思い鉛を付けたような足取りで御堂筋を歩いた。
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