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幼い頃両親が離婚した木下は、家族と言う存在に一種の憧れを抱いていた。家に戻っても誰もいない、幼少時代。寂しさと心細さに打ちひしがれた日々。木下少年が当たり前の家族を夢見ることは許されなかった。女手一つで育ててくれていた母に対して申し訳なく、心の内でいつか自分が理想の家族を作り上げるのだと誓うばかり。心労が祟り、五年前に母親が他界した後も、その思いは潰えず、妻に押し付けるように、専業主婦の道を強要した。妻の愛子はそんな彼の寂しさを察してか、──始めこそ不服に思っていたようだが──文句も言わず、尽くしてくれる。
そればかりではない。
木下の家族観は徹底していた。
専業主婦であるからとスーパーやデパートの惣菜は一切禁止。手作り料理こそ最もよいものと、常に口を挟む。それこそが、彼の過去になかった、彼が最も欲していた、家族の温もりの形なのだ。更に、先月産まれた長男勇人の育児についても異常にこだわった。母乳育児、布オムツ、手縫いの肌着……。どんどん要求はエスカレートしていく。それでも妻は、夫が決めたことだからと誠実に言いつけを守った。
型にはまったような木下の生き方は、団塊世代の頑固オヤジのようだと皆陰口を叩いた。木下はそれを知っていて、それでも、どうにもこうにもこの生き方を変えることが出来ないでいた。四十前なのに年寄り臭いとよく言われる。だからどうだと木下は言う。彼は自分の生き方を曲げようというつもりは一切ない。人は人、自分は自分。そう信じていたからだ。
だらだらと流れる汗が頬を伝い、顎に差し掛かり、慌てて拭う。
歩道橋から、株式会社ヤマカワの看板が見えた。六階建てのビル、木下の勤め先だ。
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