第三章・痛み

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 その日は小松とお茶を飲み、絵を描くことなく家へと帰った。明日からはまた好きなものを好きなだけ描きなさいと小松は言ってくれ、それだけで心が軽くなる思いがした。すでに何を描こうか、その事で頭がいっぱいだ。  軽やかな足取りで家へと上がると、八雲は円卓に本を並べ紙にペンを走らせている。一体何をしているのか、じっと見詰めていると、漸く織希に気が付いた八雲は柔らかな笑みで迎えてくれた。 「おかえりなさい。早かったね」  ただいまと返してすぐ、織希は問い掛けた。 「なにをしているの」  八雲はペンを置くと、得意げに一枚の紙を見せる。 「数学のテスト」  最近八雲は勉学に並々ならぬ熱意を燃やしている。八雲自身学校には通っていなかったらしく、織希の勉強のついでに自分もまた勉強をしている気になるのだそうで。けれど、織希はあからさまに眉をしかめた。 「数学はいやだな」 「でもやらないと」 「数式なんて覚えてなんの役に立つの」  国語ならまだ分かるが、織希はとにかく数学が嫌いだった。 「この世にいらない知識なんてないんだよ、織希。使う事はなくても、知っているってとても大切なことだと思うな」  あまり納得ができず、織希は返事をせず居間を後にした。  勉強が嫌いなわけではない。読み書きや歴史は学んでいてとても楽しいのだが、とにかく数学に魅力を感じないのだ。答えが明確すぎて、面白味がない。八雲はそうではないと言うが、何がそうではないのかまるで分からなかった。  画材の入った鞄を置いてから手を洗い居間に戻ると、八雲は円卓ではなく縁側に腰を下ろしていた。瞳は遥か遠く、村上がいるであろう空へと馳せて。 「流」  その背中があまりにも頼りなくて、織希は思わず声を掛けていた。振り向いた八雲は、それでも気丈に微笑む。 「ごめん、夕飯作らなきゃね」 「いい、僕がやる」  こんな状態の八雲を台所に立たせるのは不安だ。けれど八雲はいつものように、それを良しとはしなかった。 「俺がやる」  八雲は言い出したら聞かない事はすでに織希もよく分かっている。競い合うように台所へ向かいながら、高い位置にある八雲を仰ぐ。 「ねえ、今日は素麺にしよう」  素麺ならば八雲でも苦戦する事はないだろう。そう思っての提案だったが、一足先に台所に辿り着いた織希を、八雲の大きな身体が背中から抱き竦めた。 「本当、お父さんに似てきた」  ふ、と耳に掛かった吐息に、織希は思わず身体を跳ね上げ八雲を突き飛ばしていた。一瞬驚きに見開かれた瞳が、すぐに優しく細められる。 「ごめん、素麺作るね」  流しへ向かう背中を見送りながら、高鳴る心音を耳元で聴き織希は上擦った呼吸を繰り返す。自分が取った行動の意味が織希にはわからなかった。けれど、八雲に触れられるたびに胸に不可解な高揚感が蓄積してゆく。ただ、この想いが何処へ向かうものなのか。それだけは織希の中ではっきりとした形を持って脈打っていた。
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