第一章・春の刻

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「織希、お茶にしないか」  突然背後から掛けられた声に、織希は一瞬視線を全面硝子張りのアトリエに彷徨わせてから母屋へ繋がる扉の前で微笑むすこし腰の曲がった老人へと落ち着けた。 「はい、先生」  きちんとたたみ椅子の上に置いておいたしろいシャツを羽織り、ボタンを素早くとめながら師である小松の元へ歩み寄る。 「冷房を切っていたのか」  小松の言葉に、織希は思い出したように頬を辿る汗を手の甲で拭った。 「すみません」 「いや、いいんだよ。だが熱中症になるといけない。お父さんたちが心配するだろう」 「ええ、気を付けます」  素直な織希を前に、下がっていた眉尻がゆっくりと上がる。小松はズボンのポケットから取り出したハンカチを織希に向けてそっと差し出した。 「汗を拭きなさい」  ありがとうございますと一言添えて、織希は絹のハンカチで滴り落ちる汗を拭った。  ふたりは言葉も交わさずにアトリエの隣にある小松の書斎、と言うのだろうか。画集や画材が所狭しと犇めく部屋へと足を運んだ。ここは応接室の役割も持っているらしく、よくこうして休憩の際や、織希の親が迎えに来る時などに使われるのだ。  革張りのソファに腰を下ろすと、目の前には既にクッキーと青い包みのチョコレート、そして小松が好んで飲む紅茶が用意してあった。この紅茶は、すこし甘い。覚えのある味を舌先に思い出しながら、織希は微かな吐息を吐いた。 「最近、何かあったのかね」  不意に小松に問われ、驚いた風を装い顔を上げる。 「どうしてですか」 「いや、何もないのならいいんだ」  ふと視線を逸らした老父の皺を念入りに眺めながら、織希はどこか居た堪れない気持ちがした。小松と出逢い、もう七年近くになる。父である村上によれば、間も無く織希は十五歳の誕生日を迎えるそうだ。この村に越してきてほぼ毎日顔を合わせているのだから、小松にしても思う事があるのだろう。自覚があるほど、最近織希は自分でも様子がおかしい事は分かっていた。そしてだからこそ、小松が醸す濁った色の空気に堪え兼ねた。 「先生、今日はもう帰ろうと思います」  言うが早いか立ち上がる織希を、小松はひどく慌てた様子で止めた。 「急いで帰る事もないだろう。もう少しお茶を飲んで行きなさい」 「いえ、帰ります」  はっきりとした調子で答えたが、それでも小松は必死で引き止めようとめまぐるしく考えている事はその表情でよく分かった。小松は元々あまり口が達者な方ではない。あまり苦労をかけるのも悪いと思い、織希は不器用に微笑んで見せた。 「すこし、春が終わる山を見て帰りたいのです。暗くなるとお父さん達が心配するから」  小松はようやく安堵したのか、短い呼吸のあとに、そうかとちいさく漏らした。 「明日また朝から来ます」 「待っているよ。あまり深くに入らないで、気を付けてお帰り」  はい、と答え、頭を下げてから織希は小松の家をあとにした。
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