第一章・春の刻

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第一章・春の刻

 鳶が鳴いている。まだ陽が高いと言うのにもう山へと帰るのだろうか。それとも、雛の誕生でも祝っているのだろうか。米粒ほどの鳶を追い掛けていると、不意にするどい輝きが瞳孔を貫いた。暦ではまだ遠いと言うのに、今年の夏は随分と気が早く、天高く燃える太陽のしたで青々と艶めく山が深い呼吸をしている。  硝子張りの壁から視線を戻し、織希はゆっくりと息を吐いた。鏡に映る少年は、随分と浮かない顔をしている。だが、最近鏡を見ればこの顔ばかり。元々そう言う顔なのかもしれない。  何処か憂いたその顔を眺めながら、織希は短くなった鉛筆を握り締めた。  鏡の中の少年の瞼を桜色の爪がなぞり、頬を擽り、細い首筋を辿って膨らみのない胸を撫でる。何度も何度も繰り返し薄い皮膚に触れながら、白魚のような細くしなやかな指先に握った鉛筆で、白い紙を穢してゆく。だがその筆致は重く、少しもいかぬうちに手は止まる。輪郭ばかりいくつもいくつも書いては捨て、普段ならそうかからないであろうデッサン画を書き始めてかれこれもう二ヶ月になろうとしていた。  自画像を描いてみてはどうか、とは、絵の師である小松の提案だった。好きなものを好きなだけ書くことが最も大切だと小松自身も言い、今回のような課題を出す事も稀である。だが織希自身敬愛する小松の進言をこれまで疑った事もなく、拒絶した事もなかった。  だが、実言えば自画像はまるで気が進まないのだ。最近鏡を見る事も嫌で、毎朝、毎晩、そしてこのアトリエさえ、織希にとってはある種疎ましい存在になり掛けていた。  切れ上がった目尻、うすい唇、神経質な細い眉、余計なものを削ぎ落としたようなするどい骨格────どこか覚えがある顔。胸の奥から沸々と煮えるマグマにも似たその感情の名を、織希は知らない。けれど、気持ちの良いものではなかった。それどころか、薄い皮膚を引き裂き、しろい骨を粉砕したくなる衝動に駆られることさえある。このままでは精神が朽ちてしまう気がしてならないのに、それでもやはりイーゼルの前に立ってしまう。絵を切り捨てたら、一体何をして生きていけばいいのか。それも織希には分からない事だった。
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