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腕時計を見る姿勢のまま、あたしは動けなくなった。
野球部の打球の音が、カンと響く。
「……葉月」
「敬広、ごめん」
「えっ」
「明日、もう一回言って」
あたしは急いで自分の自転車に走り寄り、鍵をかけて飛び乗った。
今日に限って赤信号ばかりで、あたしはいらいらと地面を蹴った。
いつものコンビニの自転車置き場にすべりこんだのは、3時半近くだった。
おじさんの姿はない。
焦りまくってきょろきょろ見回すと、解体中のアパートへ向かって歩みを進める淡いブルーの作業着が見えた。
あたしはその背中に向かって自転車を飛ばした。
「待って!」
あと5メートルのところでブレーキをかけながら叫ぶと、おじさんは振り向いた。
「……おお。来ないかと思った」
目尻の皺を深くしておじさんは笑い、立ち止まってくれた。
「おじさん、あの」
肩で息をしながら、あたしは言った。
「うん」
「あたし、葉月っていうの」
「……ハヅキちゃん」
名前を呼ばれて、耳がかっと熱くなった。
「さっき、例の幼なじみに告白された」
「おお、おめでとう」
おじさんは少年のような顔で笑った。
長い前髪が作りだす陰影が、その笑顔を淋しそうに見せた。
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